
こんにちは、Miyabiだ。
僕はトランスジェンダーで、人間存在についてをテーマにアート作家活動をしている。
作品の中ではLGBTQ+についても考えているものが多い。
で、この間「自分は色塗るときに、あまりレインボー配色使わないなぁ」と思った。
「LGBTQ+といえばレインボーフラッグ」
っていうのは一般的になってきているが、今回は
- LGBTQ+って見た目で分からない
- レインボーフラッグ=見た目で見分けようとしているモノではないか?
- レインボーフラッグはどういうときに必要か?
について考えていきたいと思う。
目次
LGBTQ+は見た目で分からない

LGBTQ+は見た目では分からない。
「身体の性別と違う性別のファッションをしてるな」って思ったとしても
- 移行期のトランスジェンダー
- 異性装(クロスドレッサー)
- 中性的であるシスジェンダー(生まれた身体と性自認が一致している状態のこと)
などなど、本当に色んな可能性があるのだ。
またレズビアン・ゲイ・バイセクシュアルなどの性的指向に関してのアイデンティティは、恋愛対象・性愛対象のみの話なので、見た目はアイデンティティに関係ない。
ファッションとジェンダーの関係は、「スカートはくのは女の子だけ」「スーツにネクタイは男だけ」「何故なら周りの大人も、漫画やアニメのキャラなんかも、みんなそう言っているから」みたいな社会的な制限の話で、「水色のフワフワが可愛いから身に着けたい!」って根本には実は性別は関係ない。
水色のフワフワがあったとして
・可愛いって思う
・なんとも思わない
って見た目の満足感も、
・身に着けたい
・身に着けたくはない
って実践するかどうかも自分の判断で、その「自分の判断」のストッパーやブースターとして「自分の性別と合致するイメージなのか」が介入してきたりするってことだね。
レインボーって言わなくても、ここにいる

ということで、レインボー配色を使わなくても、LGBTQ+は普通に存在している。
そしてレインボーを付けていなくても、LGBTQ+の理解者・協力者であるアライも普通にいると思う。
僕が作品でレインボーを使わないのは、この「普通に存在している」点を推したいからだなぁ……と感じた(あるとき突然「レインボーグッズ作ろう!」って思い立ったときのために「絶対使わない」とは言わないでおく)。
LGBTQ+が見た目で見分けることができなくて、「○○だからLGBTQ+」みたいにルッキズムによらないのと同じように、「レインボー」も絶対の指標となるわけではない。
そしてレインボーフラッグがなくても「アライなのが当たり前」な世の中になってほしい。
レインボーはシンボル

とはいえ、レインボーフラッグが完全にいらないかと言うと、そうではない。
何故ならレインボーフラッグはシンボルだからだ。
LGBTQ+は見た目によらないこと、レインボーフラッグがなくても普通に存在していることから、レインボーフラッグがなくてもアライが当たり前な世界を目指すのがLGBTQ+的な最終目標だと思う。
が、今のままでは見た目で分からないLGBTQ+が完全に埋もれて、認知すらなくなってしまいかねない。
LGBTQ+同士でも、もともと「LGBTQ+」って単語は色々なアイデンティティを「マイノリティだから」って理由で1つにまとめてしまった有象無象なので、「レインボー」の概念がないと色々な問題提起をバラバラに、小さい単位でしていかなければならなくなる。
そこにレインボーフラッグがあると、配色デザインとして目を引くし、1つの目立つ旗があると、その思いに共感できる人がそこに集まりやすくなる。
旗は昔から、同じコミュニティの人たちを結束させるためのシンボルだった。
そういう意味で、レインボーフラッグがあるとまとまりを作りやすく、色々な人の目を引くことができるのだ。
「デザインが好きだから~」で入ってきた人にレインボーフラッグの由来を伝えることで、アライを広げる逆輸入もできるかもしれない。
レインボーがなくても普通に存在している前提を踏まえつつ、埋もれている存在を救い上げて、アライを広げる意味でレインボーは必要なんだね。
まとめ

今回はレインボーは必要かどうか、レインボーがなくても普通に存在しているってことについてお話してきた。
LGBTQ+を語る上でレインボーを使う人はたくさんいる。
なので僕は「レインボーがなくても普通に存在している」面を担当するってことで、作品ではレインボーをあまり使用しないスタンスでいきたいな、と考えた。
「レインボーを使うべき」「レインボーを使わないべき」のどっちかではなく、多分どっちもそれぞれ担当する人が必要で、両方の面からLGBTQ+について見てもらえると、LGBTQ+に対する勘違いとか起こりづらくなるのではないかな、と思った。