こんにちは、Miyabiだ。

皆さん「ダイバーシティ」という言葉をご存知だろうか?

数年前からちょくちょく聞くようになったけど、ちゃんとは知らないかも。

カタカナで見ると「ダイバーのいるオシャレ街」っぽく見えるが、これは英語の「diversity」から来た単語だ。

今回はこのダイバーシティについて、LGBTq+と関係あるのか?ということについてお話していこう。

ダイバーシティとLGBTq+の関係

ダイバーシティとは?

ダイバーシティは英単語の「diversity」から来たと先ほどお話した。

ダイバーとシティじゃなくて、「ダイバーシティ」で1単語なんだね。

そう、このdiversity(ディバーシティと発音)という単語は「多様性」という意味があり、そこから転じて、「性別、価値観、信仰、年齢、人種、言語などの違いで区別をせずに、理解をしあって、どんな人にも自分の能力を発揮してもらう」というような意味合いで企業や学校、事業などで使われるものだ。

日本ではもっぱら「女性進出」の1点のみで語られるが、ダイバーシティの理念と照らし合わせると、LGBTq+・外国籍・障がいを持った人などもいっしょに考える必要があるだろう。

当ブログではLGBTq+(と、アート)をテーマにしているが、LGBTq+をも含めたダイバーシティを取り入れて推し進めているLGBTフレンドリー企業を「ダイバーシティスコア」でまとめて紹介しているサイトもあるので、ぜひ検索してほしい。

「多様性」って?

ところで「多様性」とは何だろう?

え、色んな人がいることじゃないの?

もちろん、色んな人がいることでもある。

だが実はそれだけでは「多様性」とは言えない、という。

何故ならそれだと「女性の社会進出ね、雇えば良いんでしょ」といって雇った後にガラスの天井をありありと見せる企業も、「あなたの能力を発揮してほしい」といって本気で創造力を伸ばすためにガラスの天井を壊そうとする企業も、同じになってしまうからだ。

多様性でいえば、性別などのアイデンティティを足かせにしない、後者が「多様性のある企業」ということになる。

どんな出自であっても、元はライバルや敵だった人であっても、同じ目標を持っていたら「今日からお前もオレの仲間だ!!」「なんだ、あんたも私の仲間じゃん!!」となる、少年漫画の主人公を思い出すと分かりやすいかもしれない。

LGBTq+はダイバーシティに関係する?

ここまで見ていただけたら、すでにお分かりだろう。

LGBTq+もダイバーシティに関係する。

「LGBTq+」という言葉には「シスジェンダーでヘテロセクシャルの人」は含まれないが、「ダイバーシティ」という言葉ならどのセクシュアリティの人も含まれることになる。

人をアイデンティティで分断せずに、能力のみを見るのに使える言葉なので、仕事をする上で有用な考え方だということが分かる。

風刺画に学ぶダイバーシティの考え方

ネットやSNSでたまに風刺画が流れてくるが、「壁の向こうのサッカーの試合を観戦する風刺画」はご存知だろうか。

背の高い人、中背の人、背の低い子どもの3人が壁に沿って立っている。

壁の向こうではサッカーの試合をやっている。

壁の向こうは、背の高い人なら余裕で観戦することができ、中背の人はギリギリ頑張れば見れて、背の低い子どもは壁面しか見えない。

これをこのままにしておけば「平等」になる。

生まれ持った現在の身長だから、どうしようもできないもんね。

だが、中背の人に低い踏み台、背の低い子どもに高い踏み台を用意すればどうだろう?

3人とも、余裕で観戦ができる背の高い人と同じ目線で、壁の向こうのサッカーを見ることができるようになるのだ。

これが「人権」となる

皆にサッカーを見る権利が手に入った!
あ、これって同時に「見ない権利」も手に入った?

そう、美少年くんの言うように、「できる権利」が手に入れば、「しない権利」ないし「選択をする権利」も手に入ることになる。

これはマイノリティに対する政策や、施設などの完備に相当する考え方だ。

たまに、余裕で壁の向こうのサッカーを見れている背の高い人から

「中背の人や背の低い子どもばっかりズルい!」

という声が聞こえるが、その人たちが既に手に入れている権利を、まだ権利を持てていない人にも持てるようにしているのだから、ズルくはない。

むしろ同じ目線、土台スタートにできるので、誰にとっても良いことになる。

LGBTq+もダイバーシティに関係する話に戻ろう。

LGBTq+もダイバーシティに関係すると同時に、他のアイデンティティを持った人もダイバーシティにもちろん関係するのだ。

「ダイバーシティ」という考え方が人種のるつぼのアメリカで発生したのだから、本当に色んな人と一緒にやっていく必要がある。

このときに、あなたは「自分には壁の向こうのサッカーを見るために、「踏み台」というモノが、このくらいの高さで必要です」と明確に伝えると、価値観の違う相手も「なるほど」と理解しやすくなるだろう。

またあるとき、あなたは「背の高い人」かもしれない。

「壁の向こうのサッカー」の見やすさは、時と場合によって変化する。

これらを把握した上でだと、あなたの能力が発揮しやすくなるかもしれない。

「壁の向こうのサッカー」が見にくい!あるいは見えない!っていうときは、相手にそれを伝えて改善。
そうすると、初めて「試合の感想」「試合のどの場面が参考になるか」とかを話し合うことができるんだね。

渋沢栄一が言ってたダイバーシティ

そういえばダイバーシティについて見ていて、「渋沢栄一が似たようなことを言っていた」とふと気づいた。

渋沢栄一は幕末生まれ、明治初期には政府の井上馨といっしょに働いていたが、その内辞職して会社をいくつも設立した人物だ。

僕は岩倉使節団で木戸や大久保といったドンが渡欧してしまった後の、「留守政府」と言われる状態のときの渋沢の巻き込まれ方が好きなのだが、その話は今は置いておこう。

で、渋沢栄一がダイバーシティについて言ってるの?

そう、渋沢には著書があって、それにダイバーシティの先駆けのような主張を見ることができる。

彼は自身の著作に「才能の向き・不向きで人材を適材適所に置くべき」と言っている。

これは渋沢の生きた当時を考えると、まだ各藩の「元・藩主」や「元・重臣」がいて「良家の人…」と意識されていたり、さらに「薩長土肥」といった維新をリードした藩の出身がエリート街道に行きやすい時代だったので、それに対する考え方ともとれる。(渋沢は元幕臣(倒された幕府の家来)だったこともある)

渋沢の生きていた時代、当時のマイノリティであった、戊辰戦争で負けた側の藩の出身の人、家の身分が低い人などなどがガラスの天井にぶち当たっていた。

また、「女子教育が必要である」とも言っている。

時代柄、「女子は母になって子育てをする」という考えが元になっているが、「女性を前時代のように「子どもを産む道具」と道具視してはいけないし、無教育のままにしておいて馬鹿にするのもいけない」とも主張している。

渋沢いわく、

  • 女性は子どもを産んで教育をするので、女性の教育は巡り巡って将来の国民の教育にもなる。
  • 人類は女性と男性で構成されるので、男性と同じように「国民」として能力を開花してもらうことで、国民の半分しか役に立たない状態から、国民全員が役に立つ状態にすれば、国のためにもなる

というような感じだ。

性別観はともかく、この「女性」と書いてあるところを「LGBTq+」「他人種」「外国人」「障がい者」などなど置き換えることで真価を発揮すると思う。

また「国民全員が役に立つ状態」というのは、ダイバーシティの「アイデンティティに関係なく、その人の能力を発揮できるようにすることで、企業の創造性も高まる」という考え方に通ずるところがある。

200年近く前の人なので時代錯誤なところや、時代考証的な読み方が必要なところもあるが、今回のダイバーシティの話題において、歴史好きも高じて少しご紹介してみた。

ていうか女子教育のところ、200年前に言ってることなのに、まだ解決されてないよね?
200年前と同じような現状が今でもあるってちょっとヤバくないか…?

思うに、女性の社会進出も、LGBTq+などのマイノリティの進出も、元は「自分の能力を役立てる」という点では同じことだ。(もちろん、シスジェンダー・ヘテロセクシャルの自国民の健常者男性のようなマジョリティも)

「女性問題でいっぱいいっぱいでLGBTq+とかはまだ……」という発言をよく聞くが、上の考えでいくと、この発言が出ること自体、既にダイバーシティではないように思う。

必要なのは能力だからだ。

ダイバーシティといっても、本人や当事者を調べることなしに法律や規則を作ってしまうと、現状とのズレが発生する。

となると流れは「今度来る有能AさんはLGBTq+だ。LGBTq+は初めてだから何がオッケーで何がダメかいまいち分からないな。今度本人に希望を聞いてみよう」「今度のリーダーは有能Bさんにやってもらおう。外国人だから意思疎通でギクシャクするところもあるかもしれないけど、定期的に困ってないか聞いてみよう」と、能力先発で、フォロー体制を構築、となるのではないだろうか?

そしてこの考え方は、仕事外でも、友人関係でも使える考え方だ。

「壁の向こうのサッカー」と同じ状態なので、国の人権意識も高まるキッカケにもなると感じる。

まとめ

今回はダイバーシティについてお話してきた。

壁の向こうのサッカーの例は、マイノリティに対するサポートやフォローの法律・規則などの捉え方を確認するのにとても良いなぁと思っていた。

「背の高い人」は既に壁の向こうのサッカーを見えて楽しめるので、自分は人権が既に手に入っていることに気づきにくい。

同じ目線になって、同じサッカーを見て、その先の話をできるようになりたいだけなのに、「踏み台とかズルい、優遇されてる」と「背の高い人」に言われてしまって、未だに壁の向こうのサッカーを見れないままにされているのが、「女性」「LGBTq+」「障がい者」「外国人」であることを忘れてはならない。

その「サイズの合った踏み台」という土台ができて初めて、能力を存分に発揮する成長ができる。

オリンピックイヤーの日本、頑張ってほしい。