こんにちは、Miyabiだ。

ルノワールと言えば色彩豊かな女性画や街の様子を描いたことで有名だが、彼も少年を主題にした絵画を遺していることはご存知だろうか?

ルノワールも少年画を…?

ルノワールが少年画を描いた時期を見てみると、同じ画家で友人だったフレデリック・バジールの存在があったのではないかと考えられる。

今回はルノワールの描いた絵画「猫と少年」と、彼の友人で画家のフレデリック・バジールについてお話していこう。

ルノワール「猫と少年」

ルノワールが少年画「猫と少年」を描いたのは1868年のことで、ルノワール・27歳のときのことだ。

それがこれだ。

なんか暗い……黒いね?

そう、有名な後期の作品に比べると「色彩のルノワールはどこ?」と感じるだろう。

78歳まで生きたルノワールの作品群の中では、この作品は初期に位置する。

なのでルノワールの有名な「パレットではなく、キャンバスの上で絵の具を混ぜて色を作る」印象派の描き方がまだ誕生していないときの作品となる。

「習作(陽光の中の裸婦)」(1876年)、約10年後にはこういう画面になっている。

この「猫と少年」も初期のルノワールの癖である「黒く塗る」が適応されているのだ。

なるほどね。
ところでルノワールは少年画もたくさん描いているの?

実はルノワールは、少年の裸体画はこれ以降制作していない。

画塾時代の仲間の姿や、注文された肖像画などで男性の姿を描くことはあっても、「男性の体そのもの」を主題とした絵は、ルノワールの中ではこの「猫と少年」のみとなっている。

では何故ルノワールはこのとき「少年の裸体画を描こう」と思い立ったのだろうか?

フレデリック・バジールという画家

そこにはフレデリック・バジールという1人の画家の影響があった。

ルノワールの描いたバジールの姿。(1867年)

バジールはルノワールと同い年で、ルノワールが20歳で「画家になろう!」と決心して最初に入った画塾で出会った男だ。

同じ画塾にはクロード・モネなんかもいて、これは後々「印象派」といわれる仲良し画家の出会いでもある。

バジールの描いたルノワールの姿。(1867年)

バジールは裕福な家に生まれて「医者になる勉強もするなら、絵の勉強しても良いよ」と言われてパリに出てきていた。

本人は医者になる気などさらさらなく、絵の勉強と制作に打ち込むとともに、画家仲間のために大きいアトリエを構えて自由に制作できる環境を用意したり、仲間であるモネのサロン落ちした絵画を購入して支援したりするパトロン的な面も持ち合わせていた。

モネ「草上の昼食」(左部分)。女性をエスコートする姿でバジールが描かれている。

他にもモネの「草上の昼食」(マネの「草上の昼食」にインスピレーションを受けたモネの作品)のモデルを務めたり、あるいはセザンヌをルノワールに紹介したり、19世紀フランスの絵画史の裏側で重要な役割を数多くこなしている人物でもある。

お金持ちで絵が好きでコミュニケーション力も高い、とても良いヤツってことだね。

バジールとルノワールの共同アトリエ

バジール「ヴィスコンティ通りのアトリエ」(1867年)

1866年、2人が25歳のとき、バジールはヴィスコンティ通りにアトリエを構え、そこでルノワールも共同で制作できる環境ができている。

さらに「手狭になってきた」ということで、1868年にバティニョール地区にアトリエを移した。

バジール「バジールのアトリエ」(1870年)。自分や仲間のサロン落ちした絵画をたくさん飾っている。

こちらももちろん、ルノワールも一緒についていく

これらアトリエには2人以外でも、モネやシスレーなど、同時代の画家仲間も出入りしており、同じモチーフを囲んで一緒に静物画を描いたり、お互いの姿を描きあったり、中学・高校の美術部でありそうな楽し気な雰囲気が印象的で羨ましい。

バジールの男性画

「網を持つ漁師」と「猫と少年」

マネ「草上の昼食」(1862~63年)

マネの「草上の昼食」が「現実の女性の裸体を描いていて、不道徳」と、当時のサロンや批評家から大バッシングを受けた絵画だということは、聞いたことがあるのではないだろうか。

これは19世紀当時、「人物の裸体画=神話や歴史上の人物」という常識があったからだ。

現実の人物を裸体にするのは画期的で、悪く言えば「あり得ない」ことだった。

と同時に、「アカデミックな裸体画」と「現実の風俗画」をミックスさせようという動きがこの時代から起こり始めた。

バジールは1868年に、「アカデミックな男性ヌード」と「現代的(僕らから見れば19世紀的)な絵画」をかけ合わせようと実験をしている。

それがこの「網を持つ漁師」だ。

「何故このような絵画を描いたのか?」という思考が先行していて、絵としてじゃっかん不自然な感じがするのはともかく、19世紀フランスで見ることのできた日常的な風景に、ダビデのような、神話に登場しそうな男性の勇敢そうな裸体が組み合わさっていることに気づく。

待って、このバジールの「網を持つ漁師」と、さっきのルノワールの「猫と少年」、何だか似てる…??

そう、先ほどご紹介したルノワール「猫と少年」。

実はバジール「網を持つ漁師」と同じ年に描かれている

どちらも背中から見た男性裸体ポーズだ。

1868年はバジールもルノワールも、新しい描画方法を模索すると同時に、伝統的なアカデミックな絵画研究もしている。

バジール「自画像」(1865~66年)

同じアトリエで制作をしているのだから、お互いの興味や研究内容が影響し合うのもうなずける。

「男性裸体画を今の時代と組み合わせるなら…?」というテーマで研究していたのはバジールのほうなので、おそらくルノワールはバジールの研究に影響を受けて「自分ならどう描くか?」と考えた結果が「猫と少年」だと考えられる。

バジールの男性画のその後

「網を持つ漁師」は「なんか不自然では…?」という感想を抱きかねないが、バジールはこれを糧としてもう1つ男性裸体画を描いている。

それが「夏の情景」だ。

これは翌年の1869年に描かれたもので、「網を持つ漁師」でも見られる19世紀フランスの風景と、セミヌードの男性のグループを組み合わせた絵画だ。

より自然に、より日常的になっていて、後年・現代に至るまでの男性画に影響を与えている。

確かに、「裸体なのは、泳いでいるから」「脱いだ服が草の間に見える」って描写も自然だね。

「草上の昼食」や「網を持つ漁師」が「服を着ていて良い状況なのに裸体」という、当時のサロンから見れば挑発的な画面だった。

一方で「夏の情景」は「裸体(水着は着ているが)ではあるけれど、受け入れやすい」画面になっている。

当時のサロンや批評家も「光に溢れている!」と高評価していて、さらにサロン入選まで果たしている。

あれ?そういえばバジールはただの裸体画じゃなくて「アカデミックな裸体画」って言ってたよね?
アカデミックさはどこにあるの?

良いところに気づいてくれた。

実は「水泳をして余暇を過ごす」近代的なこの絵画は、伝統的な人物ポーズが配置されてできているのだ。

一番分かりやすいのが左端の男性。

聖セバスティアヌスの伝統的なポーズを意識して描かれている。

ソドマ「聖セバスティアヌスの殉教」(1525年)

そして右端の水からあがる男性。

「最後の審判」にあるような天国に導かれる人間とも捉えられる。

ミケランジェロ「最後の審判」(部分)(1541年)

つまり、「新しさ」を支える「根拠」が明確に存在している絵なのだ。

バジールはぽっと出の思い付きで男性の裸体画を近代的に描いたのではない。

大昔から積み重ねられてきたものを研究して、それを骨組みとして、目の前の現実である近代らしさを肉付けしていき、「現実世界の裸体」というタブーを打ち破った1人なのだ。

↑こちらの記事で取り上げたエイキンズは、ここから約20年後にアメリカで水泳遊びをする男性の絵を描いている。

主題や構成にバジールの「夏の情景」の影響が感じられる。記事後半にその絵画を取り上げているので、是非。

まとめ

今回はルノワールの唯一の少年裸体画「猫と少年」から、彼の仲間の画家であったフレデリック・バジールの男性裸体画についてお話してきた。

ルノワールはこの後はご存知の通り印象主義の絵画や、それから脱却するために新古典主義の絵画を研究したりして、現代に至るまで巨匠として名が遺っている。

一方バジールは、「夏の情景」を描いた翌年1870年に起こった普仏戦争に参戦し、ボーヌ=ラ=ロランドの戦いで銃弾を受け、28歳で戦死した。

なのでここで紹介してきたルノワール「猫と少年」は彼の初期作だが、同い年のバジール「夏の情景」は晩年の作品となる。

バジールは男性裸体画の他に、当時入ってきた日本の文化(=ジャポニズム)にも興味を示していて、それをテーマにした絵画も制作していた。

バジール「身繕い」(1870年)、「夏の情景」とともにサロン出品したが、こちらは落選した。日本の着物が見られる。

若くして戦死をしたので、画家としてどのような思想があったのかはっきり分からない部分も多く、それゆえに評価も高くしづらい画家でもある。

だが女性の絵をメインに描き続けたルノワールに「少年の裸体画を描いてみるか…」と一瞬でも思わせたくらい男性裸体画をどう構成しようか研究していたのだろうと予測できるのも事実だ。

僕自身も人物画を制作する人なので、バジールは自分のルーツの1人でもあるのだなぁ…と実感した。