
こんにちは、Miyabiだ。
「人体デッサン」というと、男性モデルも女性モデルもいて、モデルの着衣・ヌード・セミヌードを選べ、時間やポーズを決めて描くことができる。
描く側も老若男女性別問わず参加することができるのが当たり前だ。
美術系の学校や予備校、絵画教室などで人体デッサンをすることができるよ。
だがこの「当たり前」ができたのは実は最近のことだとご存知だろうか?
19世紀では女性が美術などの専門的教育を男性と同じように受けることも、運良く受けることができたとしても「男性モデルのヌードデッサン」をすることはできなかった。
「男子生徒は女性・男性のヌードデッサンをできるのに、何故女子生徒はダメなんだ?」
このことに疑問を感じ、教育改革に踏み込んだ1人の美術教師がいた。
それが今回ご紹介する、トマス・エイキンズだ。
目次
トマス・エイキンズと美術教育とジェンダー
美術教育改革

トマス・エイキンズは19世紀アメリカの画家・写真家・彫刻家であり、美術学校の教師だった。
19世紀といえば科学の時代の始まりで、アメリカもまた国力を付け始めて、ヨーロッパから良いところを取り入れた合理的な学校教育を行っていた。
これまでの美術教育というと、まずは古代ギリシャ彫刻などを複製した石膏像を木炭などで描く「石膏デッサン」、過去の巨匠の名画を完全複製する「名画模写」、白と黒の絵の具でデッサンや模写をする「グリザイユ」などのモノクロ修行を1~2年みっちりやる。
それから色彩を使った静物画・人物画などの練習をまたみっちりやる。
この進み方でやっていた。
うっ…長い…
確かにモノクロだと構図に使われる要素の内、「陰影の付き方」や「コントラストのメリハリ」を抽出できるから力付きそうだけど、ずっと基礎練はしんどそうだな…
トマス・エイキンズはここに革新的な教育方法を取り入れた。

モノクロのデッサンはするものの、モノクロだけの期間を短くし、目に見える実際の色でモデルを表現する着彩画の訓練も早くからできるようにしたのだ。
最先端技術である写真も、学生たちの理解を進めるために使った。
また「リアルな人体」を追求したエイキンズは、解剖学的な観点を美術教育に取り入れた。

今では「美術解剖学」は藝大・美大などの学校でも、漫画やイラストを独学で訓練している人も参考にしているものだよ。
筋肉や骨の付き方を学んで、実際に人物を描くときに「ここに○○筋があるから…」と説得力ある人体を描く目印に使えるものなんだ。
だがここで、1つ問題が発生してしまう。
女性も男性と同じ教育機会を

そしてもう1つ、エイキンズは大きな教育改革をしようとした。
それは女性の学生に男性ヌードデッサンをさせることだ。
こちらの記事でも書いた通り、女性と男性では基礎的な骨格から作りが違う。
なので人物を描くプロになるのならば、女性ヌードも男性ヌードも基礎練習としてやっておく必要があるのだ(実際に自分の絵柄が写実的でなくても、とても応用が利く基礎練)。

だが19世紀、女性の社会進出が始まったばかりの時代、ジェンダー的な差別がまだまだ色濃く残っている時代だ。
「女性は純潔であるべき」「男性の裸なんて見せてはいけない」
こんな価値観が横行して、女性に男性ヌードデッサンをさせることができなかった。
同じことは医療の教育の場にもあって、男子医学生と同じように女子医学生に男性の遺体を使った人体解剖の授業をしようとしたところ、暴動が起こってしまったこともあった。
こんなんじゃ女の人は、やる気あってもプロへの道が絶たれちゃうよ…
だがエイキンズは屈しなかった。

男子学生の参加する授業と女学生の参加する授業に差を付けたくなかったのだ。
女学生の参加する人体デッサンの授業に、まずは腰布を付けたセミヌードの男性モデルを使った。
そしてある日、男性モデルの腰布を外してヌードデッサンにしたとき、「女学生のいる授業で男性ヌードデッサンをさせた」として、美術学校の教師を辞任させられてしまったのだ。
他の学校でも教師をしていたエイキンズは、こりずにまた男性ヌードデッサンを他の学校でもさせて、そこでもまた教師を辞めさせられている。
何故、女性にも男性のヌードデッサンをさせた?

僕たちは日常的に走っている車を目にしているから、少し手先が器用なら、車の絵を描くことができる。
だが「実際に走れる車」となると、エンジンがどういう構造になっていて、それがどのように走るエネルギーに変換されて…といった内部構造が分からないと描けないものだ。
同じように普段見る人間は服を着ているが、人間は服から頭や手が生えているわけではない。
何が衣服をまとっているのかを知ると、生き物の重みが絵に出る。

といったことがデッサンの意味の1つとなるが、エイキンズはさらにジェンダーと道徳にも踏み込んで考えている。
「男は男に見られるためだけに男の彫像をつくるのか?女は女に見られるためだけに女の彫像をつくるのか?」
「不適切とは何だろうか?」
もっともこの時代まででも男性画家たちは女性ヌードを数多く遺してきている。
この事実を踏まえると、エイキンズの抱える矛盾がジェンダーのものに近いのではないかと考えられてくる。
学生の自由を尊重

強制的に教師を辞めさせられたとはいえ、エイキンズの授業は学生たちに人気があったようだ。
教えていたのは美術のアカデミーではあるが、彼の教え子には画家だけでなく、漫画家やイラストレーターになった人もいる。
「「ああしなさい、こうしなさい」と指導を受けてその通りにしていたら、いつのまにか先生の劣化版みたいな作風になった」というのは芸術界隈によくあることだ。
だがエイキンズは、基礎的な最低限の指導以外は特に口出しせず、学生自身が進みたい方向を模索し、それに合わせて教わったことを応用していけるようにしていた。
だからエイキンズ自体は画家だけど、イラストやリトグラフ、装飾系の仕事を志す学生も歓迎されたのだ。
なりたい職業も学生の性別も問わず、どの分野でも使える基礎部分を強化するように考えていたんだね。
エイキンズの男性絵画

エイキンズは教師時代、人体デッサンの重要さを必死に教えようとした。
学生には美術の基礎としてだが、エイキンズ本人にとっては「リアルな人体の追求」は一生をかけた主題でもあった。
リアルな人体とは、写実的なのもそうなのだが、「絵のモデル」というと気取ってポーズをしてしまうところを「普段通りのかっこう・ポーズ」をするという意味もあった。

そして一発で作品を仕上げるというよりかは、写真も使いながらじっくり何枚もスケッチをして練り上げるやり方をしている。

また連続写真を使って、人体の運動についても研究している。

1つの静止した絵画を作るのにかなりの研究を積み重ねているのだ。
そういえば19世紀は写真の登場によって、馬がどういう風に走っているのかをやっと解明できた時代でもある。(それまでにも走る馬の絵はあったが「多分こんな感じ」と想像で描かれていた)
馬が走る姿も、ジャンプする人の姿も一瞬すぎるので、例えば「ジャンプする人の絵が描きたい!」と思っても、描きたいポーズでモデルを静止させることはできなかった。
それは鑑賞者側も同じなので「多分こんな感じ」と描かれたジャンプでも「ああ、ジャンプしてるのね」と受け取ることが可能だ。

だがここを「実際はどうなんだ?」と追求したのが、エイキンズだ。
自分の作品のために何枚も写真を撮ったりスケッチしたりしたのも、教育機会に男性よりも恵まれない女学生にヌードデッサンをさせようとしたのも、ここの頑丈な基礎部分の追求にある。
そして、人間の裸体は「自然が生み出した最も美しいもの」だという信念がそこにあったのだ。
まとめ

今回は近代の美術教育者、トマス・エイキンズについてお話してきた。
リアルな人体を最先端技術である写真を使ったり、スケッチを大量に描いて研究したエイキンズは、人体の美しさと、後進の専門的教育の機会の平等を信念にしていた。
「リアルな」人物画の系譜として、100年前のフランスの画家・シャルダンの描く美少年たちがいるので良かったらこちらもどうぞ。
エイキンズと結婚した女性もまた画家で、2人とも専門家として人体や表現の研究を協力したり、各自で制作に専念できる環境を調えたりしていたようだ。
エイキンズ研究では「エイキンズは同性愛者か?」という議論があるという。
確かに彼の描いた大量の男性の人物画や写真作品は魅力的だし、美しさにもフォーカスされている。
さらに同性の仲の良い人もいたようだ。(恋愛関係かは分からないが、自転車などの趣味が一緒だった)

僕はエイキンズが同性愛であってもなくても、男性ヌードを生徒に描かせたことによって辞任を強要されたこともあって、「男性ヌードは不適切ではない・美しいものだ」という証明をしているようにも感じるのだ。
近い時代で「男性のヌードも絵画の主題になり得る」ことを証明した画家・フランドランについて、こちらの記事をどうぞ。
エイキンズの生きた100年後のアメリカでは、男性画がどうなったかについては、こちらのライエンデッカーの記事をどうぞ。