こんにちは、Miyabiだ。

僕はトランスジェンダー男性で、絵を描いたりブログを書いたり、視覚的な表現を通して地球の人たちが「自分のアイデンティティを気兼ねなく自己紹介できる」世界を目指している。

セクマイ(セクシュアル・マイノリティ)だと

「本当の自分を出せない…」

「セクマイのコミュニティなのに、自分と考えが違う…?」

「居場所がない…!」

という悩みを抱える人もいることだろう。

これらの悩みを、自分で解決できる方法はないのだろうか?

今回はセクマイの人たちは自分に対して「メタ」視点を取り入れると楽になるのではないか、というお話をしていこうと思う。

セクマイとメタ視点の自画像

セクシュアル・マイノリティと「理解」の問題

セクマイは「マイノリティ」と言われるだけあって、今一つ理解される環境が整っていない感じがする。

外国に行ってしばらくすると

「味噌汁食べたい!よもぎの入った団子が食べたい!」

と急激に日本食が恋しくなるも、気軽に売っていない、あるいは値段が高すぎてもはや高級食材みたいで買えない、日本食をパパッと食べれる環境がない!

と思うのと似ている。

「セクシュアル・マイノリティを理解してほしい」と言ったところで、ゲイもレズビアンもトランスジェンダーもアセクシュアルもXジェンダーも、様々な種類が含まれているので「これさえやればオッケー!」な解決策が簡単に出せないのも事実だ。

でもだからと言って「じゃあ面倒くさいから対応とか法整備とかはナシ!」となってほしくはない。

なので「自分はこう考える」を言えるようにしたい…

また、同じトランスジェンダー男性でも

「僕は制服のスカートがとても嫌だった」

「え?自分はスカート履くこと自体は別に…それよりも「女の子なんだね」って認識される方が嫌だったかな」

のように価値観が違っていたりもする。

「セクマイなのに、コミュニティになんだか居場所がない気がする…」という悩みを持つ人もいるだろう。

僕はこれらの悩みを解決する最初の1歩として、「こちらを向いていない自画像を思い浮かべる」ことが重要だと感じる。

1つずつ解説していこう。

自画像は何故こちらを向いているのか?

美術館や絵画の作品集を見たりすると、「自画像」というタイトルで作家自身の姿を描いた絵を目にすることがあるだろう。

アングル「24歳の自画像」

これらはたいてい、こちらを向いた人物の絵になっている。

何故「自画像」はこちらを向いているのだろう?

1つは、画家が鏡で自分の姿を見ながら描いているからだ。

パルミジャーノ「凸面鏡の自画像」

昔はカメラが無かったので、当たり前といえば当たり前だ。

もう1つの理由は、自分の内面、つまり心や感情・思想を作家自身が直接見えるからだと僕は思う。

クールベ「自画像(絶望した男)」

目を合わせてこないで話している人を見ると僕たちは

「…この人が話していることは本当かなぁ…?」

と少し疑ってしまう。

逆に見つめ合うと、心を見透かされた気分になる。

自画像の場合は見透かすも何も、自分の心は「完全に理解した」と思っている状態なので、画面の中の自分と見つめ合った方がより理解して「自画像」を描ける

また、「自画像」と銘打って全く違う人物を描いている場合であっても、「画面からこちらを向いている人物」の絵は、作家の「自画像」的な作品と解釈されることが多い。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ」、モデルはいるものの、「レオナルド本人では?」説も常にある

自分の姿を出す代わりに、自分の「代理」としてモデルなどの見た目を借りて、そこに「自己」を投影するやり方だ。

VTuberを考えると分かりやすい。

ではこちらを「向いていない」人物画とは?

では今回やろうとしている「こちらを向いていない」自画像とは何だろう?

シャルダン「カードのお城」

こちらを向いていない人物、というのは、僕たちが普段目にする「人」と同じだ。

街ですれ違ったりするたいていの人は、こちらではないどこかを見ている。

なので人物画においても「作家自身ではない誰か」であることが多く、「可愛らしいなぁ」「カッコイイなぁ」「美しいなぁ」といった外見の印象が強く、内面に関しては「ミステリアス」あるいは「何を考えているか」について受け手に考えさせない仕様になっている。

ミケランジェロ「理想的頭部」(スケッチ)

あくまでも「他の人を見たとき」どんな印象を受けるかを、作家も鑑賞者も共通して意識するのが、この「こちらを向いていない」人物画だ。

ではこれを「自画像」にしたとき、何が起こるだろう?

普段の生活で僕たちは「鏡に映る自分」は「自分」として認識できるけど、「写真に写る自分」は少し他人っぽく見える。

さらに「レンズを見ずに遠くを見ている自分の写真」は我ながら「他人からはこう見えているんだ」「何を考えているのか把握しづらい」くらい客観視できてしまう

これをセクマイの自画像に応用すると?

「自画像」は実際に自分で描いたりすると分かりやすいが、ここはひとまず脳みそ内で「自分ならどんな感じにするかな?」と想像するだけで大丈夫だ。

セクマイの場合、「珍しい」と認識されがちなので「セクシュアル・マイノリティであること」が自分のアイデンティティとして強く意識することが多い。

だが外見からその人がセクシュアル・マイノリティかどうかは判別できないので、自画像ではそれ以外のあなたにも着目することになる。

趣味は?何を大事だと思っている?何が好き?…などなど。

これって意外と大事な部分なのだ。

学校だけ・職場だけだと「セクマイの居場所がない…」と感じたり、セクマイのコミュニティだけだと「セクマイのことだけなので、違う考え方や趣味とか言えない…」と感じてしまったりもする。

学校や職場、コミュニティがいけないという意味ではなくて、その場その場で「自分の中でふさわしい部分」を出すと、「その場には馴染まない部分の自分」がどうしても出てきてしまう。

なので上に書いた以外のところ、例えば「映画好きの会」「釣り堀に行くと会える人」「歴史の史料を読む会」など、少しでもレーダーに引っかかるところに満遍なく参加する「自分の中の色んな要素」が満足できる。

これはセクマイも同じで、「学校や職場ではこういう話ができる」「セクマイ同士だとこの話が共有できる」「趣味の界隈ではこの話で盛り上がれる」というようにしていくと、例えどこかで話の合う人が発見できなくても、他の界隈に行けば発見できるかもしれない

「マイノリティ」が感じやすい「孤独」を、自分の所属できるコミュニティの数を増やすことで解消できるきっかけができるのだ。

どのコミュニティに行くかを決めるために「何が気になるか?」を潜在的に理解するのに、こちらを向いていない自画像は役に立つ。

また、自分を「どんな雰囲気で描くか」だけでも「どんな雰囲気を大事にしているか」が分かる。

はじけるような明るい自画像を想像する人もいれば、静かで穏やかな自画像を想像する人もいるだろう。

つまりこちらを向いていない自画像とは、自分の内面をメタ的に客観視するきっかけになるのだ。

実際にやってみる

これは僕が油絵で描いた「こちらを向いていない自画像」だ。

まず「絵」なので現実の僕にそっくりに描かなくても良い。

なので少し美化する。(「自分は美しい!この見た目が大好きだ!」と言う方は是非自信を持ってほしい。僕の持っていない考え方で、とても羨ましいし良い考えだと思う)

次に「「メタ」ということは、演劇の舞台を裏から見るような感じだろうな」ということで、舞台の大道具を意識したフレームにする。

少しボロい印象のも、「幻想的なお城や宮殿なんかじゃなく、人の手で作った舞台装置」というのを見せたかったからだ。

「現実」を意識したフレームの中で、シャボン玉という「幻想」「儚い存在」のメタファーを入れた。

「現実感満載の舞台装置すら、幻想かもしれない」

…仮説をいっぱい立ててこねくり回したい性格が丸見えになっている(笑)

そしてそれを見守る犬。

これは僕が小学生の頃から飼っていたダックスフントで、この子は僕が男性になる過程もしっかり見ている

ホルモン治療で声が低くなったり、髪を短く切ったりしても、この子だけは変わらず「遊んで!遊んで!」と最期までしっぽを振ってくれていた。

LGBTq+やセクマイも、もちろんそうでない人も、この子のような対応が結局一番嬉しいんじゃないか

絵を描き上げたところで、これに気づいた。

「こちらを見ている自画像」だと自分を飾り立てることに意識がいって、訳もなく花を散らしたりしてしまうことが多い。

一方で「こちらを向いていない自画像」は客観的にモチーフを配置することができる。

「大事だから」描きこんだモチーフが「何故大事に感じるのか」に気づくのも、こちらを向いていない自画像の良いところだと思う。

まとめ

今回は「こちらを向いていない自画像」を想像すると、自分への理解が進むということをお話してきた。

「セクマイ」以外の面も知って、「自分」という存在を立体的に捉えると精神的にかなり楽になる。

ところで「想像するだけで良い」と言ってきたが、「絵が描けない」と思っている方も全然描いて大丈夫だ。

絵の上手い・下手ではなく、「何を考えて描いたか」「この絵を描くに至るまで、自分はどんな人生をおくってきたかが絵に乗っているか」が重要なのだ。

これはアート用語で「コンセプト」という。

現代アートや「○○コレ」といった最先端ファッションがぱっと見理解不能なのは、「見た目の上手さ」ではなく、この「どんなコンセプトで作ったか」が大事になっているからだ。

ジョン・ケージのピアノ曲に「4分33秒」がある。

これはピアニストがピアノに座り、何も演奏せずにいる曲だ。聴衆もその間じっとしている。

聞こえるのは建物の軋みや布ズレ、咳やくしゃみ、呼吸、足音、などなど。

これは演奏の上手いピアニストだけではなく、ピアノ椅子で寝ている猫でさえも演奏可能な曲といえる。

だけど何故この曲がアート史に残っているかというと、「上手い演奏だけが音楽じゃなくて、普通に聞こえる音も音楽の価値あるんじゃない?」と提示したからなのだ。

今回の「こちらを向いていない自画像」も表現を通して、あなた自身について考えるのが目的だ。

なので実際に描いてみて、さらに部屋に飾っておくと「そういえばこういうこと考えたなぁ」「自分にはこんな面もあるし、あんな面もある」と脳みそをほぐすきっかけになれるのでお勧めしたい。