
こんにちは、Miyabiだ。
美青年のイラストの世界には、20世紀から現代まで人気を博しているイラストレーターがいる。
ジョセフ・クリスチャン・ライエンデッカーだ。

彼のイラストはただ美しい人物が描かれているだけではなく、日常生活やイベントの価値観を一変させ、僕たちのいる日本の昭和期のイラストレーターにも大きく影響を与えている。
ライエンデッカーの美青年イラストは、彼のパートナーである1人の男性の存在が大きい。
今回はライエンデッカーとパートナー男性について、彼の絵についてをお話していこう。
目次
美青年イラストとライエンデッカー
美しい絵柄の基礎が生まれた、修業時代

ライエンデッカーは1874年にドイツの小さな村に生まれ、8歳のとき(1882年)に一家でアメリカ・シカゴに移住した。
彼には兄・姉・弟が1人ずついて、特に姉は生涯にわたって共にいて、弟はライエンデッカーと同じく絵の道に進んだという。
ライエンデッカーは青年期になると「正式な美術教育を受けたい」と、シカゴ美術研究所でドローイング(デッサンやクロッキーなどの絵画の基礎訓練のこと)や美術解剖学を勉強し始めた。

ライエンデッカーのイラストはかなりリアルな絵柄に見える。
だがよく見ると、真っ先に目が行く顔や主役のモチーフ以外は大まかな塗り、最低限の描きこみしかしていないことが分かる。

これは描きこみと抜きを上手く調整して「主役」を引き立たせる、絵画分野の古典的な技術だ。
「イラスト」という仕事の速さを求められ、商品を引き立たせるための絵に上手く研究所時代の学びを応用させているのだ。
その後、弟とともにフランスに渡り、パリのアカデミー・ジュリアンという私立の美術学校に通い始めた。

当時のパリの美術学校といえば国立のエコール・デ・ボザールだが、アカデミー・ジュリアンは個人の教室から学校の体に変化した、いわゆる私塾のようなところだった。
ボザールが女性の入学を禁止しているのに対し、アカデミー・ジュリアンは男性も女性も美術を学ぶことを許可しているなど、比較的自由な校風が特徴と言えるだろう。
またライエンデッカー兄妹のように、海外からの留学も積極的に受け入れていたのだ。
先生にはボザール出身の画家・ブグローなどがおり、「優秀なら学校の派閥問わず先生にするため招く」方針だったようだ。
ここで1年間勉強し、兄妹は学びを生かすためにアメリカに戻った。
同時期のアカデミーにはロートレックやミュシャ、ジュール・シェレなど、その後アールヌーボーとして広告やイラストレーションの分野で活躍をする人たちがいた。



古典的な美術教育と時代の流行りが掛け合わされて、人気イラストレーター・ライエンデッカーが生成されたのである。
生涯のパートナー、チャールズ・ビーチとの出会い

フランスからアールヌーボーを持ち帰ったライエンデッカーは、1899年にアメリカに帰国し、その年に人気雑誌サタデー・イヴニング・ポストの表紙の仕事を受けた。
順調にキャリアをスタートした彼は1900年代に入るとアパレルとも仕事をするようになった。
それがライエンデッカーの代表作とも言える大人気作・アローブランドのアローカラーマンの登場である。

この時、当時10代後半でモデルのチャールズ・ビーチと出会った。
アローブランドのためのイラストは、「シャツの襟(カラー)を付け替えることができる」男性向けのアパレル商品のためのものだ。
これらのイラストのためのオリジナルキャラクター「アローカラーマン」のモデルとしてチャールズ・ビーチは採用されたのだ。

「これを付ければ、こんなオシャレで良い男になれる」
「これこそ20世紀アメリカの理想の男性像だ」
ということで、20世紀の幕開けとともにライエンデッカーの美青年イラストは大衆に受け入れられたのだった。

チャールズ・ビーチとの関係はここで終わらず、ライエンデッカーの人気が衰えたときも亡くなるまでずっと連れ添った。
また1951年にライエンデッカーが亡くなったときの遺産は、彼の姉とチャールズ・ビーチと均等に分配された。(ともに絵の仕事をしていた弟は、この30年ほど前に既に亡くなっている)
同性婚が認められていない時代なので「独身」扱いとなっているが、チャールズ・ビーチはライエンデッカーのパートナーと見なされており、彼のイラストの特徴の1つである「美青年」とセクシュアル・アイデンティティとの関係を推測できる。
以前記事にしたファッションデザイナーのイヴ・サンローランとベルジェの関係を彷彿とさせる。
日本の美少年イラストレーター、石原豪人との関係
昭和期に活躍したイラストレーターに石原豪人がいる。

彼は自身の絵のルーツにノーマン・ロックウェルからの影響を挙げている。
ノーマン・ロックウェルは20世紀アメリカのイラストレーターであり、当時人気の最先端を行っていたライエンデッカーの影響を受けた1人だ。

なので石原豪人は系譜としてにライエンデッカーの影響を受けていることになる。私淑とはいえ孫弟子のような感じだ。
また石原豪人もジュネなどBL雑誌の挿絵を担当していたことから、同性愛的美少年のイラストをも描いている。
偶然の一致な感じがして、やはり作家の影響の系譜を探るのは面白い。
他の影響
この記事を書いている日は母の日だが、「母の日に花を贈る」伝統はライエンデッカーのイラストが始まりだ。

フランスから帰国してから300以上の表紙を担当してきたサタデー・イヴニング・ポストの1914年5月30日の表紙に彼は、ヒヤシンスを運ぶベルボーイを描いたのだ。
他にもサンタクロースといえばのイメージを作り出したり、「朝食といえば」のケロッグのコーンフレークの広告イラストを手掛けたり、20世紀アメリカの庶民の生活はもちろん世界にも影響を与えている。

まとめ

今回はライエンデッカーの美青年イラストについてお話してきた。
ライエンデッカーはイラストの仕事でいくつもの流行や伝統を作り出した。
その1つである20世紀初頭のアメリカの理想の男性像は、彼のパートナーであるチャールズ・ビーチとともに作られたものだった。

狂騒の20年代で人気が頂点に達し、その後世界大戦にまで発展する1929年世界恐慌の打撃で仕事が減っていってしまったライエンデッカー。
「イラスト」というものが「企業」や「商品」に付随するものであるため、経済の発展と恐慌は彼の仕事にもろに影響してしまうのだ。
その中でも一貫してライエンデッカーとチャールズ・ビーチは一緒にいて、華やかなときは社交界に出たり、経済的に落ち込んだときは家の仕事をしたり、そのときそのときの仕事をこなしていた。
同性だと結婚できないことから「期間限定」だったり「愛人関係」だったりの話が多いけれど、「パートナー」としての関係を見ることができて何だか嬉しい。