
こんにちは、Miyabiだ。
19世紀末に出た、イギリスが舞台の美少年・美少女の兄妹が登場する小説がある。
ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」だ。
美少年が出てくるということに釣られて読んでみると、なるほど耽美でその上名作と言われるだけあって何度読んでも様々な解釈が平行してできてしまう面白さがある。
また性的なことはタブーの時代ではっきり表記はされないが、同性愛がキーとなる解釈の仕方も存在する。
今回は耽美小説「ねじの回転」とその考察についてお話していこう。
目次
ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」
概要と、エドワード・ゴーリーからの評価

1898年に発表された小説「ねじの回転(原題・The Turn of the Screw)」。
今回は平成29年に新潮文庫から発刊された小川高義氏の訳という、現段階で新しい翻訳本を読ませていただいた。
この小説を知ったきっかけは、「怖い絵本を描く」でお馴染みのエドワード・ゴーリーのインタビューからで、
「ヘンリー・ジェイムズの作品は全て読んで心の底から嫌いだ。2回読んだのもあるが、やはり嫌い」
と前置きをして「ねじの回転」について少し話をしていた。

嫌いなのに全部読んでいて、しかも2回読んでいるものもある…
しかもあえてタイトルを挙げているということは、好き嫌いはともかく、力がある小説と見なして間違いないはずだ。
ゴーリーは好きな作品に紫式部「源氏物語」やサミュエル・ベケット(劇「ゴドーを待ちながら」などを書いた)など、幅広く、さらに僕に刺さる作家をお勧めしていたので、彼の挙げるアーティストはとりあえず見ておこう。
嫌いと言っていても…そう思って手に取った。

怖い絵本を描くゴーリーのインタビューで出てきただけに、「ねじの回転」はホラーに分類されている。
だが一般的な「お化けが出てきてキャアー!!」なホラーではなく、ヴィクトリア朝時代を意識した退廃的で耽美な感じで、日本で言えば江戸川乱歩の小説を読んでいるような空気があるのだ。
美少年・美少女・じっくり・耽美・考察がいくらでもできる、というのがお好きならばとてもお勧めだ。
あらすじ※ここからネタバレを含む

20歳の田舎の牧師の娘が、ロンドンの紳士の甥・姪の家庭教師になるため、彼ら兄妹が住む屋敷にやってくる。
この女家庭教師が「私」として、物語を語っていく。
兄妹は親がいなく伯父である紳士が引き取ったものの、その紳士は彼らの世話を家政婦や家庭教師に任せて「自分には連絡をしてこないでくれ」と別居している状態だ。
屋敷について間もなく家政婦のグロースさんと、彼女に世話をされている紳士の姪御・フローラ(8歳)と出会う。
その後すぐに甥御・マイルズ(10歳)とも出会った。
彼ら兄妹は可愛く、素直で賢い天使の美少年・美少女で、「私」は瞬時に魅了された。

だがある日、「私」は屋敷内で幽霊を見てしまう。
グロースさんに特徴を話してみると、それはどうやら最近亡くなった下男・クイントと、「私」の前任の女家庭教師・ジェセル先生の霊だったようだ。
しかも彼らは善くない人たちだったらしく、兄妹を悪い方へ引きずり込もうとしていて「私」の恐怖はつもっていく。
同時に上品で利口で素直な兄のマイルズははっきりした理由もないまま学校から放校処分にされ、その通知が届いた「私」はわけが分からなくなる。
子どもたちを観察していると、兄妹は2人の幽霊が見えていて、それを「私」に隠そうとしているようだ。
「私は子どもたちを守る。でも子どもたちは幽霊側について善くない方向にいこうとしている」
その疑心暗鬼はどう決着をするのか?
果たして本当に幽霊はいたのか?
「幽霊」とは何だったのだろうか?
「ねじの回転」考察~天使か悪魔か?
「私」とは?

実はこの女家庭教師の話は、とある紳士・淑女の怪談話の会で披露されたものだった。
女家庭教師の知り合いだったダグラスという男性が、この時には既に亡くなっている女家庭教師の手記を持っており、それを見つつ物語った。
それを「私(この小説には2種類の「私」が出てくるが、時間軸の差で区別可能)」という男性が聴いていて、ダグラスが亡くなったときに、怪談話の会でダグラスが語ったのを記録していて、それを回想しているのがこの「ねじの回転」という小説なのだ。
つまり時間軸は古い順に
女家庭教師の、勤務先での兄妹と幽霊関連の出来事→怪談話の会でダグラスが手記を元に語る→怪談話の会でダグラスが語った内容を「私」という男性が記録している
という3段階になる。

「ねじの回転」は一貫して女家庭教師の目線からのみで語られている。
それが女家庭教師の一人称「私」だ。
だが「ねじの回転」自体は勤務先で起こった出来事を女家庭教師のフィルターで通したものを、ダグラスがフィルターを通して、さらに「私」という男性がフィルターを通してできている作品なのである。
なので事実がどこまで、誰の意図によって脚色されているかが不明なのだ。
これが様々な解釈を同時並行して行う事のできる、1つの理由となる。
性的虐待か?

当時の時代背景として性的な話がタブーであることから、この小説でもかなりまどろっこしい会話や表現が出てくる。
まず「幽霊」として出てきた下男のクイントと、前任家庭教師のジェセル先生は身分違いの性的な関係だったことが読み取れる。
これはほぼ確実なのだが、問題はクイントと美少年・マイルズ、ジェセル先生と美少女・フローラの関係だ。
クイントは身分をわきまえず紳士階級の甥御であるマイルズをよく連れ出し、2人でどこかへ行ってしまうのがしょっちゅうだったといったことが家政婦・グロースさんから語られる。
慎み深いグロースさんは核心は言わない。
だがクイントが「出過ぎた男」であり、生前も「幽霊」として出たときもマイルズが目的だったことが見れる。
ジェセル先生の方も似たような感じで、フローラに付きまとっているように見える。
これらのことからマイルズとフローラはそれぞれ、クイントとジェセル先生から同性愛的な性的な虐待を受けていたのではないかと推測できるのだ。

このブログではLGBTq+を取り扱っていて、異性間の恋愛も同性間の恋愛も同等であると主張するが、虐待や強要はいけないと強く言いたい…。
特に同性間での虐待や強要は、LGBTq+がいる事前提の法整備が進んでいないことから野放しにされるケースが多く、それがまたLGBTq+に対する誤解を生んでいるのが現状だ。
話を戻そう。
当然女家庭教師の「私」は子どもを、特にマイルズを守ろうとする。
これは雇用主である紳士への憧れの代理としてのマイルズ、ということだろう。
兄妹の本当の思いは?

女家庭教師は「子どもたちは幽霊が見えているが、賢いので見えていないフリをしている」と思っている。
なので兄妹に対して「ずる賢い」「なんてひどい」と、天使の皮をかぶった悪魔のように途中から見始める。
だが本当にそうだろうか?
「私」という女家庭教師の目線でのみ物語は語られる。
なので僕ら読者はこの「私」の目でしか出来事が見えないのだ。
この小説を2回目に「兄妹は真の天使」として読んでみると、女家庭教師の思い込みで物語が進んでいるのが見えてくる。

兄妹は最初、2人とも「私」のことを信頼していた。
物語上マイルズとよく話すのだが、彼は女家庭教師に恋心といえる憧れすら見えるのだ。
女家庭教師だって最初は兄妹が可愛くて仕方がなかった。
「私」が「幽霊」を見てしまったことで、死んでしまった下男と前任者が「善くない」行為をしたと聞いたことで「私」の思い込みが加速し、最後にはフローラに絶大な不信感を植え付け、マイルズを虐待して息の根を止めてしまった。
「幽霊」は本当に幽霊なのか、「私」の都合の良い妄想なのか、当時の抑圧された性欲の象徴なのかは分からない。
だがそのような完全に主観的なことが幼い子ども2人を壊してしまうのは、実際にあり得るリアルなホラーと言える。
マイルズの放校の理由は?

マイルズは上品で賢く、健康で大人しいが年相応の元気さも見せる、いわば優等生タイプの美少年だ。
「私」との会話でも、大人に物おじせず会話できる頭の良さを感じることができる。
なのにマイルズの通う学校は、彼に「遺憾ながら本校の生徒として望ましくない」といった曖昧な理由で放校処分を通知している。
女家庭教師も、以前より屋敷で仕事をしている家政婦のグロースさんも首をひねった。
何故?
マイルズは屋敷に帰ってから学校の話は一切しない。なので読者も彼の放校理由が分からない。
だがラストのシーン、ジェセル先生の幽霊がいると主張する「私」に不信感をずっしり抱いたフローラがグロースさんと屋敷を出ていき、「私」とマイルズが2人きりで会話をするシーンで彼はぽつぽつと事情を話す。

マイルズ曰く、
- 口を滑らせたことがある
- いいやつと思った数人にだけ言った
- おそらくそれが回りまわって先生の耳に入った
- 僕が言ってたみたいなことは、先生たちは家庭への手紙に書けなかっただろう
と「私」に尋問されてやっと話した。
そして「私」が「何を話したのか?」と質問をしたときに、マイルズは窓の向こうを見る。
その先にクイントの幽霊が現れた(「私」しか見えていない)。
この幽霊を見せまいと「私」はマイルズを抱きしめ、気づいたら彼の心臓は止まっていて、それで小説は終わる。
何ともメタファー的な表現だ。

最後に放校の理由を掘り返したことと、クイントの幽霊が現れたことは無関係ではないだろう。
おそらく性に関すること、もっと言うと同性愛のことをマイルズは話してしまったのではないだろうか?
オスカー・ワイルドが同性愛の「罪」で投獄された時代だ。
これは「タブー」として扱われ、なので学校からの通知も曖昧なことしか書かれていなかったのではないだろうか?
ところでこの小説は身分の差も大きく関わってくる。
家庭教師である「私」は紳士階級である兄妹よりは下だが、家政婦のグロースさんや下男のクイントよりは上だ。
そしてマイルズは雇用主の紳士の代理といえる。
「私」がクイントを見せまいとマイルズを抱きしめ、心臓を止めさせてしまうのは、この絡まった恋愛・性愛関係と身分意識の成れの果てな印象を受ける。

19世紀のロンドン、屋敷、幽霊騒動。
こう揃えば自然と名探偵が出てきそうな設定だ。
だが公平で客観的な名探偵は存在せず、主観的で1つの目線からしか起こったことを見られないのはなんとも歯がゆい。
とはいえ何度読んでも色々な解釈や考察ができるのは、単一視点で理性と感情が混ざった文章で構成された「ねじの回転」の良き特徴だと思う。
まとめ

今回は小説「ねじの回転」について考察をしてきた。
タイトルの「ねじの回転」は怪談話の会で期待された「ひねった物語」や、女家庭教師が「あともう1踏ん張りで」と頑張る姿などから来ている。
僕は初見で読み終わったときにハッと気付いた、「ねじをぐるぐるねじ込むように自分の脳や考えに女家庭教師が入ってきていた」という発見や、ねじの螺旋のように回転するごとに色んな面が見られるのが小説の解釈の多さに似ている、というところにねじっぽさを感じる。
どこから間違ってしまったのだろう?
「私」が着た時点で、ねじはある程度ねじ込まれていた。
それが幽霊騒動で後戻りできないくらいきつく締められてしまった。
2回目読んでみて、これは思った以上にホラーだ…マルチエンディングのゲームのように、兄妹が救われるエンドが欲しいと、心の底から思うのだった。
ゴーリーは批判していたが「ねじの回転」、雰囲気としてはゴーリーの「ウエスト・ウイング」という字のない絵本に似ている。
似た者同士かもしれない(笑)