
こんにちは、Miyabiだ。
ゲイ映画はじめ、LGBTq+が主役の映画やゲームが好きなのだが、
「LGBTq+であることを他のキャラクターに差別されたり、偏見を避けようと隠しまくる作品は、今は重いしツライな…」
「BLや百合のようにキラキラしてたり逆にアングラなのは、今はちょっと違うな…」
「「普通」の映画にたまたま主人公や脇役がLGBTq+だった、そしてそれをいちいちネタにされない、という作品はないのか!?」
という願望がとめどもなく沸きあがることがよくある。
今回ご紹介しようと思っている映画「ブエノスアイレス」は、まさにその願いを叶えてくれる良作品だ。
さらに、「映画」として映像や間、演技、カメラがとても秀逸なのだ。
今日は20世紀末に登場した映画「ブエノスアイレス」について考察と、ゲイやLGBTq+はもちろん、映画好きにおすすめしたいわけをお話していこう。
目次
「ブエノスアイレス」~おすすめしたいゲイ映画
概要とあらすじ

「ブエノスアイレス(原題・春光乍洩、英題・happy together)」は1997年の香港映画だ。
そして撮影の主な舞台は、地球で香港の裏側にある南米・アルゼンチン。
香港から主人公・ファイと恋人・ウィンが「やり直す」ためにアルゼンチンのイグアスの滝に行こうとするが、思い切り道に迷い、車は故障し、喧嘩別れするところから映画は始まる。
何故イグアスの滝かというと、2人が気に入って購入したランプの絵柄がその滝を描いたものだったからだ。
このランプは96分の映画で、最初から終わりまで登場する。

旅費がなくなり香港にも帰れなくなったファイは、タンゴバーのドアマンの仕事を始める。
特に浮かばれず、沈んだまま仕事をこなしていると、そこに白人男性とともにウィンが現れた。白人男性の愛人をしているようだ。
以降ファイに復縁を迫ってくるのだが、ある日愛人に嫉妬されてケガを負わされたウィンが血まみれでファイのアパートに転がり込むところで「やり直す」ことが決まる。

その後、現地の中華料理店の厨房に職を移したり、ケガで両手が使えないウィンの介護をしたり、新しい生活が、それまでの白黒映像から一転してカラー映像とともに映し出される。
かつて2人で目指したイグアスの滝はランプの絵の中の存在のままで、実際の生活は仕事と介護に追われるファイと、そんな彼に「家から出るな」と言われるウィン。
上手くいくはずもなく、また喧嘩別れをしてしまう。
最悪な気分の中、同じく旅費に詰んで中華料理店で働く不思議な人間性を持つ台湾人・チャンと話し、彼がアルゼンチンから旅立ったとき、ファイに1つの決心が生まれる。
流動的で即興的な演出

この映画はいわゆる「起承転結」や「キャラクターの明確な目標(「世界一の○○になる!」のような)」が存在しない。
確かにあらすじで書いたようなストーリーはあるのだが、途中でホームビデオを見ているような生々しい感覚にもなる。(この辺の映像感覚は同時期の映画「ガンモ」(ハーモニー・コリン)を思い出すシーンもある)
なので「LGBTq+映画だから差別と闘わなきゃ」といった気張りがとれて、最初に願った「普通の」ゲイ映画、「普通の生活を送る」登場人物を描けたのではないかと思う。
「キャラクター」というよりも「ドキュメンタリーに出る生身の人間」っぽさが、映画の瞬間瞬間にふと出てくるのだ。

これは監督の映画の撮り方にも要因があったらしい。
撮影しながら次々にアイディアを加えたり、豪華キャストを撮ったシーンを後でごっそりボツにしたり、明確なストーリーよりも流動的に生まれてくる映像や感覚を捕まえて創っているとのこと。
このやり方は昔漫画を描いていた身からすると、傑作が生まれる可能性が1%、素人以下の駄作が生まれる可能性が99%、過去の作品を猛研究したプロでない限りは危なすぎる賭けだと感じる。
「ブエノスアイレス」はその1%の方に転び、故郷を離れてアルゼンチンで必死にもがく、未来に何があるのか全く分からない、かなりリアルな人間が浮かび上がった。
LGBTq+やゲイというとファンタジーになりがちだが、「彼らも1人の人間」だと思わせてくれる。
振り回される(?)制作側はとても大変そうだが、僕はとても好きだ。
「ブエノスアイレス」の演出美と考察・3点
白黒シーンとカラーシーン
映画は最初1分くらいが過ぎると、突如モノクロ映画になる。

映画自体はカラーで始まるのだが、最初のセリフ「やり直そう」と言われた瞬間から白黒の映像に切り替わり、しばらくしてケガを負って転がり込んできたウィンと病院から帰るシーンでカラーの映像に戻る。
技術的にカラーが撮れる時代なので、白黒映像は選択的演出だ。
ここ10年ではスマホを中心としたカラー漫画でもキャラクターの心情を表すために、わざと1話丸ごと白黒で描かれるものも出ている。
さて、こうなるとカラーと白黒のそれぞれの意味が疑問になってくる。
とりあえずカラーは基本色なので、白黒は主に「現実」や「普通」の状態に対しての位置になる。
「昔」を表したり、「主人公の沈んだ心の状態」を表したり、「退廃的趣味」を表したり、カラー時代における白黒のシーンには色んな意味合いがある。
「ブエノスアイレス」ではどうだろう。

「昔を表す演出」とも言えるが、同時に白黒からカラーに移行する時間軸は地続きで、「現在のシーン」もまた冒頭で白黒になっている。
では「ファイの沈んだ心の表現」かというと、ウィンと上手くいっていた最初のシーンから既に白黒なのと、中盤以降に再びファイが沈み込むシーンがカラーなのを見ると、そうでもないらしい。
タンゴバーでの仕事シーンが「ウィンと再会する前の白黒」と「再会直後のカラー」で対比されていたり、中盤当たりで「再開直後」を思い出しているときに白黒の映像が1秒ほど挟まれたりしていることから、「独占欲・または孤独としての過去」という両極端な状況、ネガティブな心情を「昔」という時間軸に絡めるときに、白黒の映像になっているのではないか?と考えられる。
「カラーになってから面白くなった」というレビューもちらほらあるように、確かに白黒シーンは昔のネガティブなので辛気臭さはある(笑)。
とはいえ、真っ暗な夜の街角で、左上に丸く白い街灯→右下にファイの黒ずくめのコート→小さなタバコの明かりといった画面の構成美がかなりある。
隠れた見どころだと思う。
ソール・ライターのような「映り込み」
写真家で、2020年の始めに東京で大きな展示があった2013年没のソール・ライターがいる。

彼の写真は、屋内からガラス窓越しに街を写したり、鏡越しにセルフポートレートを撮ったり、直接よりも「何かを間に挟んで客観化した」都会や人物を撮っている。
このような「映り込み」が「ブエノスアイレス」でも多く使われているのだ。
鏡越しにタンゴを踊ったり喧嘩をする2人を映したり、窓越しにタバコを渡して会話する2人を撮ったり、秀逸だったのは中華料理店の銀色の冷蔵庫の扉に写りこんだ人物を撮影したシーンだ。

「何で直接撮影するよりも「秀逸」なの?」
確かに、ガラスや鏡越しでなくてもこれらのシーンは撮れる。
だがカメラと俳優の間に「何かを挟む」ことによって、やはり客観化されるのだ。
映画はファンタジーもCGも撮れてしまう。
あり得ないことも「作り物だから」で済んでしまうことがある。
その中で鏡に写ったり窓越しに見たりすることで僕たちは「カメラ」と「俳優」を意識せざるをえなくなり、その反動で「本当」味が増すのだ。

これがこの映画を冒頭で言った、アングラでもファンタジーでもない「普通の」ゲイ映画と思えるゆえんだろう。
またこれは、ゲイではない観客に「1人の人間」としてキャラクターを見せることによって、映画を普遍的にさせる効果もあると感じる。
イグアスの滝とランプの存在

イグアスの滝に辿り着けなかった、という始まりで
「2人で紆余曲折ありながらイグアスの滝に向かって旅を始める話かなぁ…」
と思ったのだが、そんな陳腐なものではなかった。
結局イグアスの滝には行くのだが、これはラスト15分にファイが1人で旅立つ。
ずっと狭く窮屈なアパート内のシーンで2人の仲が上手くいかなかったので、「同じアルゼンチンにこんなところがあるのか」と驚くくらいアパートと滝は対極にある。
そして冒頭から最後まで写る「イグアスの滝」として、それを描いたランプがファイの部屋にずっと登場する。

何かのたびにランプが写るのだ。
このランプは「2人で目指したイグアスの滝」として、狭く窮屈なアパートの中で神格化されている。
途中から出てくる台湾人・チャンが「目で見るだけではダメだ」「耳で聞くと、心が見える」とファイに伝えるが、ランプはまさに目で見るだけのものだった。

同じく目で見るものとして、ファイはウィンのパスポートを取り上げている。
パスポートを返さないことでウィンが自分から離れないようにしているのだ。
この間ずっと鬱屈としているわけだが、チャンが「目で見るだけではダメ」「お金がたまったから旅に出る」と言って旅立ったことで、ファイの心に1つ風穴が空いた。
彼は窮屈なアパートを出て、イグアスの滝に1人で向かった。その後台湾、香港に向かう。
ウィンが隣にいないことに寂しさを感じながらも、「絶対に自分のそばにいないとダメ」といった再会後からまとわりついていた依存が彼から消えている。

「会いたいと思えば、いつでも会える」
最後のこのセリフは、アパートでランプを眺めていたところから、1人でイグアスの滝に行けるようになったファイの成長ともとれるのである。
まとめ・(追記)途中登場の台湾人・チャンとは何者か?

今回は伝説のゲイ映画「ブエノスアイレス」についてお話・考察してきた。
実は途中から登場する台湾人・チャンは「中途半端」という批評もある。
だが僕はこんな脇役が大好きだ。
チャンはこの映画において「自由」の象徴なのだと思う。
通りすがりのように見えて、主人公に大きな影響を与えているキャラクターなのだ。

萩尾望都の短編漫画「小夜の縫うゆかた」に登場する「亡くなった主人公の母のゆかたを譲ったところ、それを持っていくだけ」の女の子キャラクターや、岩井俊二監督の映画「リリィ・シュシュのすべて」に突如登場して主人公たちをかき回した後すぐに事故死してしまう「高尾」という旅人(?)を彷彿とさせる。
「昔」に固執する主人公に「過去は過去だよ」「別の方向を見てみよう」と示す役回りなのだ。
この役どころの退場の仕方で、その作品の主人公がどんな道を選んだかが暗喩的に示される。
「ブエノスアイレス」ではラストでチャンが無事目的地に到達してファイの録音を聴いていることから、「ファイは「やり直し」でぐるぐるしていた過去を拭いきれた」と観客は知ることができるのである。
制作の仕方からいって、僕が考察したようなことが初めから狙って作られていたかは分からない。
だが結果、「これ綺麗だけど不思議だな」「こんな意味かな?」と色々読むことができる作品になっているので良作だと思う。
今後も定期的に観ることになりそうだ。