
こんにちは、Miyabiだ。
僕はトランスジェンダーで、性自認は男性だ。
いわゆるセクシュアル・マイノリティにあたるわけだが、こうなると何をするにも気になるのが「この人・施設・会社はどれくらい理解度があるのだろう?」ということだ。
「トランスジェンダーへの理解がある」というのは、「LGBTq+への理解」に繋がり、19世紀から200年引きづっている「男女平等」への理解にも繋がることだと思う。
今回はマイノリティに対する「理解」、または「偏見」についてお話していこう。
目次
マイノリティへの理解
「マイノリティ」とはどういう意味か、についてはこちらの記事に詳しく書いてあるので、参考にしていただきたい。
「理解」とは?

理解とは何だろう?
マイノリティに対する「理解」を語るときに、人によって色んな解釈があるように思う。
ある人は「生きやすいようになる」ことを「理解」とするし、またある人は「その存在を許して権利も自由も何もかもをその存在に奪われる」ことを「理解」として恐れている人もいる。
もちろん理解を求める当事者は「生きやすくなること」を求めているわけだ。
それでは抽象的なので、ここでは「人間が個人として持ちうる権利や自由を、当事者も持てるようにすること」を「理解」とする。

「黒い服を着ている人は良いけど、青い服を着ている人の給料は半分!」とする社会の中で「服の色の違いで能力の違いではないじゃんか。給料の決め方は同じで良い、青い服だけ2分の1の計算をする理由はない」というのが「理解」だと思う。
「オレンジの服の人と青い服の人の結婚は保障を認めるけど、オレンジ色の服を着てる同士の結婚は認めないし保障もナシ」ではなく、「人の結婚とそれに伴う保障を認めるよ」が「理解」だと思う。
対象を押し拡げていないか?

1900年代後半、女性の社会進出が日本でも起こるようになり、新入社員に女性もちらほら混ざるようになった頃。
ドラマなどでよく「女性に理解のある男性」キャラクターが
「女性を守るのが僕ら男の仕事だ!」
のようなセリフを吐くものが多かった。
確かに女性に暴力をふるう男性よりは、優しく接する男性の方が100倍良いだろう。
だが女性の中には体を鍛えている人もいるし、稼いでいる人もいるし、何より暴力をふるわれて良い気持ちは男女問わずしない。
などを考えると「女性を守るのが僕ら男の仕事だ!」というセリフはざっくりしすぎているということになる。

訳すると「あなたを守るのは僕の仕事だ!」のはずだ。
それを「女性」「男性」と性別に推し拡げているのがさっき挙げたセリフ。
そこに含んだキャラクター性や前後関係が省かれて、セリフだけが独り歩きして、全くそんな関係でもないし守る・守られるような問題も起こっていないのに、男性と女性というだけで「女性を守るのが男性の仕事だ」と言っているのをよく見るなぁと感じる。

僕はトランスジェンダーではあるけれど、同じトランスジェンダーであっても女性のことは分からない。
もっというと、同じトランスジェンダー男性でも「今の性別変更の法律は人権を無視しているよね」「ホルモン注射したいなら保険外だから、適正料金の病院を探すといいよ」といった誰でも分かることは「分かる」と共感できても、ホルモン治療の結果は個人差があるし、性自認は同じでも「なりたい自分像」は人によって違うので、やはり分からない。
これは何もLGBTq+などのマイノリティだけではない。
人間は同じくくりの人を「仲間」と思うけれど、「完全に全てを共感」はできない。
それを踏まえて、目の前にいる人について知ろうとするのが礼儀だと僕は思って話すようにしている。
「偏見」がない人?

この記事で言うと、理解の反対が偏見だ。
マイノリティは「偏見にさらされているはずだから、本人は偏見とかしないんだろうなぁ」と思われることが多い。
実際、僕はトランスジェンダーの他に帰国子女でアーティストという二重三重にマイノリティだから、いわゆる「普通」ではない人はたくさん見てきた。
では僕には偏見はないのだろうか?
偏見とは「〇〇の人はこうなはずだから」という前提で物事を決めたり話したりすることを言う。
「女性は口うるさい」「日本人は陰気」のような悪意ある偏見がよく目立つ。

が、ここで気を付けたいのが「黒人は足が速い」「女性は優しいものだ」といった善意のような偏見も存在するということだ。
何故気を付けたいかと言うと、「女性は優しいものだ」という母性の神話のおかげで、女性が家庭の外に出たり仕事をしたりする自由が阻まれてきた歴史があるからだ。
善意のように聞こえるから非難しづらいし、外に出ると「優しくない女」とレッテルを貼られるといった第二の被害がある。

人間がレッテルを貼るのは「よく分からないもの」を処理して、少ない人間の頭の容量を空けるためらしい。
僕も人間なので、よく知らない領域のことについてはレッテルや偏見だらけなんだと思う。
未だに「科学者」と聞くと「試験管を両手に持って難しい顔をしている人」を思い浮かべるし、「宇宙についての研究」というと「望遠鏡をのぞいている人」を思い浮かべる。
「女性」や「黒人」と聞くとフリーのイラストサイト、いらすとやの絵柄を思い浮かべる。
いったんこのレッテルを貼ると、確かに頭の要領が空いた感覚がする。
ここで大事なのは
「あなたの研究する領域は試験管両手に持つ系じゃないんですね」
「宇宙の研究といっても、計算式を使うんですね!数学って何に使うんだと思ってましたけど、こう使えるんですね」
「女性のはるかさん」→「カポエラの選手なんですか!」
「黒人のたくみさん」→「ピアニストなんですか!今度の土曜日にあなたのコンサート?行きますよ!」
と、次の情報を仕入れることだと思う。

人間なのでレッテルや偏見は仕方がない。
でもせっかく空いた脳みそに新たな情報を入れないともったいない。
世界が面白くなるのは、レッテルや偏見で処理した「その先」にあると思う。
まとめ

今回は「理解」と「偏見」についてお話してきた。
「理解」は良いもの、正直ものはバカを見るからしない方がいいもの。
「偏見」は悪いもの、自分はしてないはず。
と思われがちだが、よくよく見るとあなたもしてるし、使えるものだということが分かった。
男性ホルモンを打つと個人差あれどヒゲが生える。
とはいえ同じ男性でも「ヒゲがオシャレ」とできる人と「ヒゲ生えないツルツルが良いな」と思う人、「特に何も思わず、とりあえず毎朝剃る人」と色々いる。
「男性=ヒゲ生える」がレッテルなのに、これは面白いなと思った。
やはりレッテルの先に面白い情報・世界が見える。
サッカーで初心者はボールを蹴るのに精いっぱいだが、プロは個人の技だけでなく試合構成や味方や相手選手の情報・コンディションなどを組み合わせて「サッカー」を精いっぱいできるのと同じだ。
「当事者でないと理解できない」ではなく、「レッテルや偏見の先にある情報を得る」ことを意識すると「敵対」ではないやり方で「理解」ができると僕は思っている。