
こんにちは、Miyabiだ。
2001年公開のイギリス・イタリアで制作された映画「愛の勝利(The Triumph of Love)」には男装の麗人が出てくる。
「何か面白い映画はないか」とレンタルのDVDを物色してパッと手に取った映画だったが、ある国の王女様による異性装ものということでLGBTq+のTのトランスジェンダー男性である僕にピッタリ(?)な作品の予感だ。
実際に観てみたら思いのほか映画の元ネタや演出が面白かったので、今回は2001年の「愛の勝利」についてお話していこう。
目次
男装の麗人と「愛」
※「ネタバレは嫌だ」という方は本編をご覧になってから戻ってきていただけるとお互い幸せになれる。
「2001年の映画はもはや歴史だから、ネタバレも何もない」という方はあらすじもご紹介するので安心していただけると幸いだ。
映画のあらすじ

18世紀のヨーロッパのとある国の王女様(先代の王である父親は、その前の王から王位を奪った存在)は、自分の父親ないし家族の犯した罪に罪悪感を感じていた。
一方クーデターで王位を奪われた先々代の王には1人の息子がいて、その息子は森の中で哲学者の兄妹に「王女は憎い存在だ、女は敵だ、恋愛はしてはいけないものだ」と教えられて育っていた。
この1人息子に王女は恋をしてしまったのだ。
王女は男装をしてこの1人息子・アジスに近づき結婚をし、王位をこのアジスに譲り渡そうという計画を実行したのだった。
「愛しのアジスに近づけるし、家族の罪も雪げる」

アジスに近づくにはまず、彼の庇護者である哲学者兄妹に気に入られる必要がある。
だが思いのほか彼らは突然の来客である王女(男装)にかたくなに帰るよう要求してきた。
ここで王女は妹を男装のまま誘惑し、兄を「実は男装なの」と明かした上で誘惑し、2人にそれぞれ「結婚しよう」と言って森の中の住処に滞在することを認めてもらう。
一方本命のアジスにも男性として近づきつつ、割と序盤で「実は女性なの」と言って、愛を知らない王子を誘惑して恋人関係(18世紀なので、つまりはほぼ婚約)になることに成功する。
もう3人と婚約していることから察せられるが、ラブコメ的大混乱が起こっている。
「どう収拾つけるんだ?」

そろそろ「王女」という正体を明かそうとドレス姿で王宮から馬車に乗ってアジスを迎えにきた王女。
哲学者兄妹がお互いに「実は来客の方と結婚することになった」と報告し合ったことで事態が発覚。
もちろん本命・アジスにもバレて、全てを明かしたのち振られる。
かと思いきや、「愛の力は負にばかり働くのではなかった」と言った結論が恋心を裏切られた3人の中に浮かんで、哲学者兄妹は研究を再開し、王子・アジスは王女の元に向かい大団円となって幕が下りる。
元は18世紀のフランスで上演された舞台作品

王女様の登場や、ドタバタ・ラブコメ、「愛こそ力なり」とする精神が示すように、これは1732年にフランスで初演された舞台作品が元になっている。
1732年といえば、フランス革命が1789年なので、まだ王政が安定している時期だ。
国王はルイ15世。
作曲家・モーツァルトの生まれる20年前の時代だ。彼のような音楽家は、宮廷音楽家として働いていた時代でもある。

東京藝大の音楽学部生は曲を聴くだけでだいたいどの時代に作曲されたかを言い当てる技があって、卒業した僕にも曲がりなりにもあるのだが、この映画に使われた音楽は18世紀のものだ。
絵画史の方で見ると時代観が分かりやすい。
ロココ時代だ。

華麗で豪奢なのが特徴で、同じ派手派手しいバロックが「重厚」ならば、ロココは「軽薄」な印象がある。
ブランコなんかはロココ時代の貴族に流行った遊びだが、映画内でも哲学者の妹が王女(男装)の誘惑に悩んでいるときに乗っていたのがブランコだった。
この18世紀の原作の戯曲を書いたピエール・ド・マリヴォーはロマンティック・コメディを得意として、全ての戯曲の主人公は女性という特徴的な戯曲家だという。
マリヴォーはこの後に「理性の島」という人間平等、理性と愛が人間の価値を決めると読める作品を創っている。
当時はどちらも初演不評だったようだが、確かに王位について色々突っ込んでいたり、人間平等を言っていたり、時代観が70年くらい先な印象がある。
こんな時代にこのような作者が作った舞台作品がベースにあると確認したところで、映画の方を演出含めて詳しく見てみよう。
「愛の勝利」、18世紀と2001年のつながり
男装の麗人があっさり「女性」と告白してしまう訳は?

男装というと、宝塚しかり、「ベルサイユのばら」しかり、「リボンの騎士」しかり、創作において人気コンテンツの1つだ。
身分の制限や「女性だから」というジェンダー観を超越するために、男性のかっこうをして志を遂げる筋書きが多い。
宝塚は舞台装置としての男装だが、これもジェンダー観を超えた存在として女性の憧れの的になってきたとも言える。
異性装は広義のトランスジェンダーに含まれる。
生まれた体の性別も性自認(心の性別)も一致していて、その上で異性のかっこうをすることだ。
なので生まれた体の性別と性自認が一致しない狭義のトランスジェンダーである僕とは違った感覚で男性の服を着て、男性の言葉で話している。
とはいえ男装の麗人は僕も好きなコンテンツだ。
話を戻そう。
この映画で特徴的なのは、王女様は愛のために男装をしているということだ。
しかも映画の中盤までの間に「実は女性だ」とバラしていたり、割とあっさり「男装」を捨てている。
「王女は憎い存在」と教育されているアジスに近づくためとはいえ、「女は敵(哲学者の妹は例外のようだ)」とも教育されている彼に男装で仲良くなり、ほぼ同じ日に「実は女性だ」と告白する転換の速さに驚く。

それでアジスもすぐ「好きだ」となるのは、紀元前のラテン文学・ウェルギリウスの「牧歌」の一説
「愛はすべてを征服する。愛に屈服しよう」からの引用のように、「理性ある人間も愛の力の前では無力・愛さえあれば乗り越えられる」
といったテーマから来ているのだろう。
現代で男装もの、恋愛ものとして見ると「ご都合主義では?」と思ってしまうが、この脚本がウェルギリウスの牧歌の引用がテーマだと考えると納得のいくものがある。
映画の強みを生かした、舞台を彷彿とさせる演出

様々な映画賞にノミネートされたクレア・ペプローが監督、「ラストエンペラー(1987年)」で知られるベルナルド・ベルトルッチがプロデュースした「愛の勝利」は、演出の仕方が面白いのだ。
話している人物が変わったり、話している場所が変わるなどの小さな場面転換のとき、そこにある像や家具、植物など、一見映像のジャマと思われるものを大写しに横切って次のシーンに移ることが多い。
哲学者兄妹が部屋で話しているシーンでは、話し合いに一段落ついた頃に妹がドアに向かって歩き出す。
カメラはもちろん妹を追うのだが、遠巻きに、家具の後ろを通ってくる。つまり、一度画面全体に家具が映され、妹が一瞬見えなくなるのだ。
カメラが家具を通過して次に妹が映ったとき、そばにあるドアには王女(男装)が登場している。
このようなカメラワークが多いのだ。
これは舞台作品の小さな場面転換に使われる、舞台上の上手から下手に移動する役者Aを目で追っていたら、下手にいつの間にか役者Bが登場して待ち構えていた、といった演出に似ている。

また別のシーンで役者の一人称視点にカメラが動いたとき、その先に現代のかっこうをして椅子に並んで座りこちらを眺める大勢の人の姿が一瞬映る。
僕は序盤で1回きり出たこの現代的な人々にかなり面食らった。
この映画の舞台は18世紀のはずだ。
なのになぜジーンズや短い髪の男性に髪を下した女性がいるんだ?

これは映画の本当に最後に謎が解かれる。
映画のラストは登場人物全員で愛の力の歌を合唱し、ステージ上のカーテンコールのような終わり方をする。
しかも、衣装を脱いだ映画俳優としてのカーテンコールで、目の前には現代の観衆が椅子に並んで座って拍手を送っている。
この映画は、映画の手法を取った舞台だったのだ。
カメラを家具の後ろを通る、切迫したシーンでYouTuberさながらのカットの畳みかけをするなど、映像でしかできない演出を加えつつも、「これは舞台作品です」といった究極の原作リスペクトをこの映画はしているのだ。
それにこの現代の観衆を映画の序盤に一瞬だけ映すやり方は、現代の僕たち見る側に向けて「原作重視してますよ~」と言っているのではなく、2001年の製作者が18世紀の製作者・マリヴォーに向けてリスペクトを示している手法と取れる。
原作無視や改悪などが話題になる今日の実写化の話題に「またこのニュースか…」とあきあきしている僕たちにとって、けっこう衝撃的な原作リスペクト過激派演出と言えるだろう。
原作リスペクトしつつ「現代の製作者の存在」も示す音楽

映像で原作リスペクトを示されていることが分かった。
とはいえ、初見だと「???」となる(僕がなった)し、いくら18世紀の原作があるとはいえ2001年の映画だ。
当然、2001年の製作者もいる。
それを映画内のクレジット以外でも存在感を示しているのが、音楽だ。
18世紀のオペラ曲を使用して時代に合わせているわけだが、これにエレキギターアレンジを乗せて曲が入るシーンがある。
今まで衣装や舞台装置、チェンバロの入った18世紀独特の編成や進行をする曲といった、「物語に入り込むためのもの」だったのが、このエレキギターアレンジによって「18世紀のフリをしているけど、現代の映画だこれ!」と受け手に思い出させているのだ。
としても、今のところ2001年性を作品内で主張する意義がない。
何で18世紀の舞台作品を2001年に映画化する必要があったのだろうか?
マリヴォーのジェンダー観か?

18世紀は想像するとお分かりのように、ネットもテレビもない。
ドラマを観るとなると、舞台作品を観るのが主流だった。
そして2001年、ドラマを演出する最新で最大の装置と言えば映画だった。
なので18世紀の舞台作品を現代に蘇らせるには、同じ演劇でやるよりも映画作品である必要があったのだ。
原作者のマリヴォーを見てみよう。

先ほども紹介したように、マリヴォーは王政によって統治されるフランスで、人間平等や理性と愛、女性主人公を描いてきた。
また、愛の勝利を書く前、「女装王子」という作品も作っている。
この映画でも見れるように、当時にしては男性は必ずしも偉くなく描いている。
ほぼ同時代のモーツァルトのオペラなどは、女性は男性をダメにする存在と男性中心・女性蔑視が普通であることも併せると、「愛の勝利」の設定は異例と言える。
マリヴォーはただ王政にへつらうしかない戯曲家ではなかった。
色んな階級や不平等による欠陥部分をコメディとして描き出した、一種の啓蒙活動と言えるのだ。

現代に戻って、第二次世界大戦中に活動を押しつぶされたLGBTq+や女性の人権運動が20世紀後半に再び起こり、かつ、2001年は21世紀に時代が転換した年である。
ここに現代でマリヴォーの舞台作品を再び演じる意義があったのではないかと、僕は考える。
まとめ

今回は2001年の男装の麗人映画「愛の勝利」についてお話してきた。
映画レビューなどを見ると星の数は散々である。
確かに時代錯誤の設定がそのままだったり、恋愛の進み方は「コメディだ」と認識していないと「速すぎるしテキトーではないか?」といった印象を受ける。
僕も初見はそうだった。
が、18世紀の原作のこと、原作に影響を与えたであろう紀元前のラテン文学のことを調べると、恋愛や男装「そのもの」がテーマではないことが分かる。
その上で映画を観ると、やはり恋愛は18世紀の舞台作品よろしくお粗末だが、そのお粗末さもコメディに観れるし、18世紀にから現代までのジェンダーの歴史もこの映画の前後関係にあると思うと、決して「お粗末」で片づけられないのではないかと思う。