こんにちは、Miyabiだ。

「LGBT」「LGBTq+」などの言葉は性に関するアイデンティティの少数派を意味する言葉だ。

アートの世界でもLGBTq+やその人権をテーマにした作品や展示が20世紀後半から発生している。

では、それ以前はLGBTq+は無かったのだろうか?

今回は、「LGBTq+」という用語を中心に、いつからこの言葉が起こっているのか、「LGBTq+」と言うことに意味はあるのかについてお話していこう。

「LGBTq+」という用語

僕はこのブログや自己紹介で「LGBTのT、トランスジェンダー男性」と言っている。

実際FTM(生まれた体は女性だが性自認が男性)の診断書を貰ってホルモン治療をして男性化しているので、LGBTq+、トランスジェンダー男性、あるいは性同一性障害で間違いはない。

本人確認されたり、公共のトイレを使うときなど性別を強制的に意識させられるときには「LGBTq+」「トランスジェンダー」という用語が浮かぶ

だが普通に部屋で映画を観たり、ご飯を食べたりしているときに、自分はLGBTq+だ、と常に意識しているかと言えば、そうではない

この違いは何だろうか。

こう疑問が出たら歴史にヒントがあることが多い。

まずは軽く、LGBTq+の歴史を見てみよう。

LGBTq+という用語ができたのは最近

「LGBT」「LGBTq+」といったレズビアン(L)・ゲイ(G)・バイセクシュアル(B)・トランスジェンダー(T)・クィア(q)・その他諸々(+)の頭文字をとってできた用語がある。

要はセクシュアル・マイノリティのことを指す。

アセクシュアルやXジェンダー、ノンバイナリー、パンセクシュアルなどなど、「LGBT」に入らないアイデンティティも、「+」に入っているという解釈を僕はしている。

この用語ができたのは1980~1990年代と最近のことだ。

なんとなくこの用語を見て、「レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーはマイノリティでもメジャーそうだな」と感じた方がいるだろう。

その通り、「セクシュアル・マイノリティ」の中でも「マジョリティ」と「マイノリティ」が存在する。

世界で見たら日本人はマイノリティだけど、日本国内だと関東・関西人が日本人のメジャーで〇〇島民は日本人・マイノリティとなるのと同じだ。

当初はゲイのみだったセクシュアル・マイノリティの人権運動が次第にレズビアン、トランスジェンダー、バイセクシュアルと範囲が広がって、さらにアセクシュアル、パンセクシュアル、Xジェンダー、ノンバイナリーなどなども声を挙げられるようになった。

「LGBT」の前の時代

ではその前の時代はどうだろうか?

セクシュアル・マイノリティの人権運動の走りは19世紀頃からある。

当時ソドミー法という同性愛を規制・罰する法意識から、同性愛の嫌疑により死罪になる人たちがいた。

また18・19世紀あたりのヨーロッパは革命や市民運動が起こったりなど、社会改革がテーマにあった。

この2つの事がベースとなって、「同性愛は本当に罪なのか?」といった疑問が生じるようになったのだ。

耽美主義で作家のオスカー・ワイルドは、同性愛の合法化を目指す団体に所属をしていた。

他にも女性を家庭に押し込める伝統的な習慣を疑問視する女性の人権運動も19世紀に起こった。

「性」に関する人権ということで同性愛者の人権運動とフェミニズム運動は同じ時代に起こったのだが、これはそれまでの宗教や王族が上から統治する時代から、科学や法・新たな思想哲学が下からも主張のできる時代に突入したことにも関係しているように感じる。

女性の参入・第二次世界大戦

ここまでのLGBTの人権運動は、主に男性が行ってきた。

なのでLGBTの中でもゲイの人権についてが一番初めに持ち上げられたし、LGBTq+の中でもゲイが一番強い・有名な位置にいることにも繋がる。

20世紀に入ると、この性の改革運動に女性も参入してきた。

ここからレズビアンやトランスジェンダーも本格的に運動に入っていくのだった。

第二次世界大戦はナチス政権がユダヤ人を虐殺したことで有名だが、ナチス政権は同性愛者と思われる人も強制収容所に連行した。

ロシアでもスターリン時代には、それまで受容されてきた女性の権利や同性愛者の人権を全て奪っていった

アウシュビッツ強制収容所への道

戦争時は「人権?そんなこと知るか」となるようで、世界的にLGBTq+や女性の人権運動は縮小・秘密組織化した。

あとこれは僕の見た感じだが、戦時中は「非国民」「戦犯」など疑心暗鬼になることで、性に関しても「生まれた体の性別、男女、異性間の結婚」でない意見を言う人は即座に「非国民」と断定してしまう空気がある。

余裕を持ってよく考えると何の脈絡もないことが分かるのだが…

戦時中でなくても自分でしっかり考えないとこのような脈絡もない断定をしてしまうことが人間にはある。気を付けたい…

「LGBTq+」と名乗ることについて

「LGBTq+」と普段自称することの疑問

先ほども言ったように、普段の生活時に「僕はLGBTq+だ」と常に意識はしない。

もっと言うと、外出中のトイレや身分証でも「自分は男性だけどなぁ」ともやっとするものの、やはり「僕はLGBTq+だ」とは意識していない。

トランスジェンダーである僕は、最初に「自分は男性」という意識があり、次に「あれ?体が男性じゃない…」と言う見た目があって、初めて「トランスジェンダー」となる。

「トランスジェンダー」という言葉が無くても、僕は「男性」なのだ。

シスジェンダーの女性が自身を「女だから~」ということはあっても、「自分は生まれた体と性自認が女性で一致しているシスジェンダーだから~」と言わないのと同じだ。

また、「LGBTq+」というと男性である僕がそうなることはない「L(レズビアン)」も含まれている。

同じ「LGBTq+」でくくられていても、男性でトランスジェンダーである僕女性でレズビアンの方のことは分からない

同じLGBTq+なので知識はあるけれど、レズビアン当事者ではないからだ。

テニス選手に「テニス詳しいんですね」と言ったら受け入れられるが、「スポーツに詳しいんですね!」と言うと曖昧な感じになるだろう。

スポーツというとテニスも含まれるが、剣道も水泳も乗馬も含まれているからだ。

テニス選手はテニスのエキスパートだが、剣道のエキスパートとは限らない

テニス

「LGBTq+」はマイノリティとされる、たくさんある性のアイデンティティの寄せ集めだ。

だから、僕は自分のことを「LGBTq+」とあまり意識していないのだと思う。

むしろ「アーティスト・Miyabiは次にどういう作品を創ろうか?」「このゲーム、あの映画と似ているなぁ」など、仕事や趣味に対する意識で「Miyabiという自分」を形成している。

このように感じている方も多いのではないだろうか?

では何故、多くの当事者や支援組織が「LGBTq+」という言葉を使っているのだろう?

「LGBTq+」ということで認知を広げる

マイノリティの中にもさらにマジョリティとマイノリティがある。

また、人によっては「ゲイやレズビアンは知っていたけど、「トランスジェンダー」って何?」という方もいる。

これらの救済措置が「LGBTq+」という言葉なのだ。

「トランスジェンダー」を知らない人に「LGBTq+のTで~」と言うと「あぁ、あのLGBTq+ね」と言ってもらえることがある。

アセクシュアルやパンセクシュアルなど、マイナーな性のアイデンティティを持つ方も大きく存在する「LGBTq+」という言葉にくくることで、一般的な認知を獲得できる可能性が出てくるようになる。

当事者からすると「ゲイ・レズビアンとトランスジェンダーはフェーズが違うから同じ認識じゃちょっとなぁ…」と思うことはあっても、「LGBTq+の人権を守るように法律を解釈しよう」など、1個「LGBTq+」といった広くて有名な言葉があれば、何かするときの取っ掛かりとなれるのだ。

外国人に「下関市民です」「北海道民です」と言うよりも「日本人です」「アジア人です」と言った方が「ああ、なるほどね」と分かって貰える確率が上がるのと同じだ。

そこから「日本の北の方に北海道って地域があって~」「酪農が有名なんです」と細かいところに入ると分かりやすい。

このような自己紹介などの取っ掛かりとして「LGBTq+」という大きな名称は、かなり助かるのだ。

LGBTq+とそれ以外の人の差は?

LGBTq+というと、そうではない人との間に壁が生まれるような感覚になる。

小学校時代に血液型占いが流行った。

僕はB型なので自己紹介として「B型だよ」と言うと、周りはA型ばかりだったようで「Miyabiはうちらと違う」といった壁が仲良し同士でも一時的になんとなく生まれた。

また、「B型だからそんなにマイペースなのか」から始まり、僕自身は変わらず過ごしていてもだんだん「マイペースすぎる」に評価が変わって来たこともあった。

全部仲良し間でのことなのでイジメなどではないが、マイナーな「B型」と自分を定義したことで「固定概念から発生した評価」が生まれたのは確かだ。

もちろん、A型の子たちの間でも全く違った個性・性格があった。

でもB型の僕がいるので、曖昧な性格の違いなどよりも、はっきりした名称の違いを優先したのだろう。

このことがLGBTq+とそれ以外の人でもあるのではないか、という思いがある。

LGBTq+は血液型と似ている。

「血液型占い」は嘘だと分かっていても、なんとなく「A型は真面目」「B型はマイペース」のようなレッテルがある。

「A、B、O、AB」と4種類に分けてはいるものの、実際はもっと細かい区分があって、輸血に際してはちゃんとした検査・より分けが必要らしい。

仲良しやケンカに血液型相性占いが使われたりするが、実際それは関係がない。

LGBTq+も「マイノリティ」とされることから生じるツラさ日常生活のティップスなどの共有からLGBTq+同士で仲良くなることもある

そこで大親友ができたりもする。

だからと言って、LGBTq+はLGBTq+でない人と仲良くできないかといえば、答えは「そこが問題じゃない」だ。

というかLGBTq+も血液型も関係なしに、本人の相性やタイミングだと思う。相性やタイミングさえ良ければ、仲良くなれる

ゆくゆくは「セクシュアル・アイデンティティ」に

僕はアート作品の制作のコンセプトに「セクシュアル・アイデンティティ」を挙げている。

「セクシュアル・マイノリティ」ではなく「セクシュアル・アイデンティティ」にしたのは、全ての人が同じステージで自己紹介ができるようになってほしいからだ。

「生まれた体の性別、性自認、性的指向、性表現」がセクシュアル・アイデンティティに入ってくるが、これはLGBTq+の人もLGBTq+ではない人も「自分事」として自己分析の材料にできることだ。

また同じような考えで「SOGI」という言葉がある。

これはLGBTq+の人もLGBTq+ではない人もまとめて、性に関するアイデンティティについてお話するときの名称だ。

歴史の流れで「ギリシャ的愛」「ソドム」「同性愛者」「性的倒錯」「変態性欲」「LGBT」「LGBTq+」と名称は変化している。

「差別が過ぎる」ということで「性的倒錯」「変態性欲」という用語が使われないようになったり、性自認と性的指向(恋愛対象・性愛対象)が区別されて名称も併せて変わったり、変化の理由は時代の流れにある。

名称は理解度によって変わってくるのだ。

確かに「LGBTq+」という言葉によって区別することは保障や権利を語る上で大事だ。

だけど日常生活では「セクシュアル・アイデンティティ」として皆がフラットに自己紹介できるようになれば、「異常」ではなく「個性」という認識になってくるのではないか、と僕は思う。

まとめ

今回は「LGBTq+」という言葉についてお話してきた。

「LGBTq+」という言葉が生まれる前にも、それに該当する人はずっと存在していたし、現代でもあえて「LGBTq+」と言わなくても「区分するなら確かにそうだね~」くらいのフィーリングで生きている人もいる。

その内、医療や法律の用語にまとめられていくのではないかな、というのが良い方向に進んだ場合の僕の予測だ。

そして戦時中の歴史を見たときに「違い」をすぐ「非国民」と断定する性質に気づいたことから、今後も戦争やそれに匹敵することが起こらないように祈っている。

今まで「画家」とこのブログでも名乗ってきたが、「画家(painter)」と「アーティスト(artist)」の言葉をよくよく調べてみると、僕のやりたいことは「アーティスト」の分類なのでは?

と感じてきた。

ので、今日から「画家」ではなく「アーティスト」で名乗ろうと思う。