こんにちは、Miyabiだ。

LGBTq+を描いたアート作品は古今東西にある。

「LGBTq+をテーマにした」とコンセプトから分かる作品もあれば、時代的・作品主旨的にLGBTq+とは言わないが隠しテーマなのではないか?とほんのりと感じられる作品もある。

ここで僕が思うのは「LGBTq+アートはLGBTq+の当事者を救えるのか?」ということだ。

今回はLGBTq+アートと当事者の関係についてお話していこう。

アートと当事者

小学校低学年のときに出会った1冊の絵本

僕はLGBTq+のT、トランスジェンダーの男性で画家をしている。

自分の生まれた体の性別と心の性自認が一致していないと感じたのは子どものときからだったが、当時の小学校や中学校の性教育はLGBTq+を無いものとしていて、当事者の僕でも「LGBTq+」という言葉を大学生になるまで知らなかった。

テレビや漫画で「オカマ」「オナベ」として面白おかしく「変な人」としてギャグキャラクターが登場したときは「似てるけど、僕はこんなギャグじゃないからなぁ…」ともやもやしていた。

小学3年のある日、風邪で保健室で寝ていたとき、ベッドの脇に1冊の絵本を見つけた。

その内容は、姉である主人公の目線で「将来は男になる!」と言っている妹について描いたものだった。タイトルは失念したが、とても鮮明に覚えている。

「妹は女の子なのに「将来、自分にはおちんちんが生えるんだよ」と天真爛漫に言っている」と姉は淡々と紹介しているのだ。

このシーンを見て、小学校低学年だった僕は、とても安心した。

「自分以外にも、同じ考えの人がいたんだ」

子どものLGBTq+当事者を救ったアート

当時読んでいた本や漫画には生まれた体と心の性別が一致している「男女」しかいなかった。

中世的なキャラクターが出てきて異性装をする場合でも「僕は男だ!」「私は女だ!」と、やはり生まれた体の性別で生きていた。

現実でも本の世界でもシスジェンダーしかいないものだから、子どもの僕は「自分だけがおかしい」と思って、「死んでしまいたい」と小学校低学年の内から考えてしまっていた。

それを救ってくれたのが、あの絵本だったのだ。

「LGBTq+」「トランスジェンダー」という言葉は分からなくても、子ども向けに作られた絵本に、やっと、「自分と同じ」を見つけられたのだ。

先ほど言ったように、教育で誰もLGBTq+について語らなかったので、絵本を読んだ後も僕は誰にも相談はできなかった。

だけど世界には自分と同じ人がいるということを知れた。

それだけでもLGBTq+当時者である子ども生きていく気力を取り戻すのに十分だったのだ。

LGBTq+アートの世の中の扱い

LGBTq+の情報を遮断しようとする世間

LGBTq+は、性のアイデンティティについての言葉だ。

それは職業や好きな映画や漫画、スポーツなどのアイデンティティと同列にある。

だが「性」に関することなので「性的」「わいせつ」と捉えられることがまだまだ少なくない。

それによって「子どものためにならない」とLGBTq+を隠そうとする意見もある。

これは教育の現場だけではなく、ヘテロでシスジェンダーの男性が優位であるアート界でも同じだ。

LGBTq+アートは彼らの手によって葬られやすい

とはいえ、その文節なら「普通」の男女をも隠す必要が出てきてしまう。

LGBTq+は「目覚める」といったものではなく、「そうである」ものに名前を付けただけだ。

なので、子どもの当事者もいるのだ。

子どもは大人によって情報を遮断されやすい。

そんな情報を得られない子どもに「あなたは「おかしく」なんかない」と知らせられるのが、アートだ。

LGBTq+アートは当事者だけのものか?

ここまでのお話で「じゃあ、LGBTq+アートは当事者を救える、ということか」と納得できる流れになっている。

果たして本当にそうだろうか?

ここで大事になってくるのは、LGBTq+アートは必ずしも「LGBTq+当事者を救おう!」という意識で作られていない、ということだ。

女性が少年漫画の男性主人公に感情移入したり、男性が少女漫画の女性主人公に共感したりするように、鑑賞者と作品を結びつけるのは「性別」だけではない

「こんなことされたら、そりゃ怒るよな」「こんなに頑張っている主人公を応援したい!」と言ったことも重要な要素だ。

アートというのは色んな側面がある。

その内の1つに「アートは、誰も気づいていない、世界の美しい面を紹介する」仕事がある。

古びた汚い路地と思っていた町の片隅でも、写真作品になっていると「なんかレトロでオシャレ」と感じたことがあるだろう。

これは実際にその路地をよく使う人でも、1回もその路地に行ったことのない人でも同じ感想を抱くことがある。

LGBTq+は世間で「無いもの」にされがちだ。

アートはそんな「無いもの」にされているLGBTq+を再発見してくれるものでもある。

つまり、LGBTq+アートは「LGBTq+」を題材・コンセプトにしてはいるが、LGBTq+「だけ」を対象にしているわけではないのだ。

2つの同じアナログ時計を並べたアート作品がある。(ちょうど上の画像のような時計を2つ横並びにした感じの作品だ)

アナログ時計なので針が全く同じ時間を刻んでいる。

だがアナログ時計なので、どちらかが先に止まってしまう

「無題(完璧な恋人)」というこの作品はフェリックス・ゴンザレス=トレスによって作られた。

彼は同性のパートナーがいた人で、パートナーに先立たれた人でもある。

LGBTq+アートといえばそうなのだが、LGBTq+でなくても、何か感じるところがあるだろう。

LGBTq+アートの2つの役割

この2つの時計は、僕が保健室で見つけた絵本とはまるで性質の違うLGBTq+アートだ。

絵本は「LGBTq+ていうのがあるんだよ」と紹介してくれるものだった。

子ども向け絵本なので教育という意味で、当事者にもそうでない人にも良い本だ。

2つの時計は、作者はLGBTq+だが「人生って、人間ってこういうものだよね」とLGBTq+の自分の体験を「人類」に範囲を広げて普遍的にしている

絵本は「LGBTq+とは?」という「情報」を担っていて、2つの時計は「そういうこともあるよね。そういえば作者はゲイなんだ」と、無いものにされがちなLGBTq+を「そこに存在する人」にする役割を担っている。

この2つの側面は、LGBTq+当事者、または世間に行きわたりづらい情報や実在感を伝える大事なものだ。

当事者は「「普通」とされる人と同等の権利がほしい」と思っている。

当事者でない人は「LGBTq+って何?よく分からない…怖いものなんじゃ…」と、情報不足による恐怖を感じている。

LGBTq+アートはそこを解決できるものということだ。

LGBTq+アートは当事者を救えるか?

LGBTq+アートは当事者だけのものではない、ということを紹介してきた。

当事者ではない人も鑑賞できるし、共感したり考えたりすることが可能だ。

当事者は「自分と同じ」と感じるきっかけになるし、当事者以外の人が共感することで「LGBTq+も人類だ」という認識になれば、法律も人権も良い方向に変わってくるだろう。

LGBTq+アートは「アートとして」楽しむことが前提だ。

そうでないのなら「LGBTq+とは~」といった本や論文を読むのと変わりがなくなってしまう。アートだからこそ伝えられる感覚がある。

アートとは何か?について知ると、その作品が何を伝えようとしているかを読み取りやすくなる。

これらが合わさってようやく、LGBTq+アートは当事者を救えると言えるのではないだろうか。

まとめ

今回はLGBTq+アートは当事者を救えるか?についてお話してきた。

僕は保健室で絵本を見た後、カラヴァッジョやレオナルド・ダ・ヴィンチなどのゲイやバイセクシュアルと考えられた作家の絵画、LGBTq+をテーマにした映画や漫画マーク・モリスローのような20世紀活躍したゲイ・アーティストの作品を観て、「世の中には色んな人がいて、みんな生きていたんだ」と勇気づけられた。

作品を制作した人は、とりあえず味方だった。

ただ問題だったのは、味方を身近に作ることがアート鑑賞だけでは難しかったことだ。

最近ではYouTubeやインスタグラムなどで自身のアイデンティティについて発信する人が多い。

僕は彼らに勇気づけられて、絵画制作で自分のアイデンティティを発表しようと思ったのだ。

70年代には「アングラ」と言われたLGBTq+作品。

地上に存在すること、僕を勇気づけてくれた作者たちのようにアイデンティティを貫くことを伝えていきたい。