
こんにちは、Miyabiだ。
僕はLGBTq+のT、トランスジェンダー男性だ。絵画制作をしている。
現代では「アート思考」といって、ビジネスの場にアート的な考えを持ち込むことによって固定概念を打ちこわし、革新的なアイディアを提案できるようにしようという動きが目立ってきている。
この「固定概念を打ちこわし、革新的なアイディアを」という側面は、何もビジネスだけしか使えないわけではない。
「変なんじゃないか」「周りと同じじゃない」という悩みで押しつぶされそうなあなたのアイデンティティを、別の方向から捉え直すことができるようになるのだ。
今回はLGBTq+の抱える「周りが理解してくれない」悩みがアートによって解決できうる、そんなお話をしていこう。
目次
もう「自分1人…」で悩まない
「アート」は何が表現されているのか?

「アート」とは何だろう?
「アートを感じる」「アートっぽい」「もはやアート」と普段言っていたとしても、改めて「アート」とは?と聞かれると、はっきり説明できない人も多いのではないだろうか。
「アートははっきり説明したらお終いだ!」と騒ぐ人もいるが、それは分からない人の強がりでしかない。子どもに難しい質問をされて「大人になれば分かる」と逃げてしまうのと同じだ。
それよりも「何でだろうね?」といっしょに調べてみたほうがよっぽど楽しい。

「アート」というのはいくつもの側面に分けられる。
最初に、アートというのは、前の時代の偉大な作品や技法を受け継いだり否定したりして新しい作品を提案していくものだ。
例えばレオナルド・ダ・ヴィンチが活躍したルネサンス期は、その前の時代に流行っていた「金箔や宝石を使って光を表現する」絵画技法を否定して、新しく発明された油絵具を使って「絵の具だけで光を表現する」絵画に進化した。
それと同時に、昔から描かれているキリスト教のテーマを受け継いだり、少し前の時代にできていた遠近法を受け継いだり、はるか昔の古代ギリシャ・古代ローマの美学を隔世的に受け継いだりしている。
アートが受け継いだり否定したりできるのは、科学が進歩して新しい表現方法ができたり、政治や経済の流れが変わって「当たり前」が変化したりするからだ。
日本でも幕末から明治にかかって大きく政治経済が方向転換したことから、それまでの浮世絵や日本画の考えを受け継ぎながらも、西洋風なモチーフや、士農工商から解放された新しい「庶民」身分の流行などがアートに表れている。

「アートはアーティストの自由な考えが表現されているんじゃないの?」と思った方もいるだろう。
もちろん、アーティストの自由な考えも重要な作品コンセプトになる。
これは2つ目の側面だ。アートは作者の声の代わりなのだ。
「友情は大事!」というのは分かっていても、知らない人に「友情って大事なんですよ!知ってますか!?」と2時間も3時間も説教されるのは耐えらるものではない。
同じ2,3時間でも、「初めは正反対で分かり合えなかった主人公とライバルが、競い合っていく内に「世界を良くしていく」という同じ目標があることが分かり、最後はお互い自分の能力を全力で発揮して最高の友だちになる」という筋の映画や漫画を観た方が、「友情って素敵だ」と思えるだろう。

明治日本でも「オッペケペー節」が有名だが、これは「自由ってなんだ?」「おらには関係ないべ」という庶民に対して、「今はこんな時代だよな」「こんなことを町で見た事あるんじゃないの?」「心に自由の種をまけ!」と言った内容をラップ調にして歌った「演説」だ。
真面目な調子で喋っても庶民に政治は分からない。
そこで「オッペケペー」の軽快なリズムに合わせてラップをすると、庶民が興味を持ってくれる。真面目な政治は分からなくても口ずさんでくれる。
歌を歌って「世の中どうなんだ?」と問うのは世界中で有名な歌手やバンドはもちろん、政治が混沌としつつも庶民に力のある国で見られることが多い。

だが必ずしも考えを表面に出せないアートもある。
3つ目に、アートは隠れ蓑だという側面がある。
例えば圧政の時代、戦時中を考えてみよう。
「欲しがりません、勝つまでは」の時代のアートは、一様に写実的な軍人の絵や軍歌だ。
自由な暮らしを表したり、抽象画を描いたり、ましてや政府批判をしたりすると逮捕されてしまう。
これは何も日本だけではない。
どの国でも圧政や戦時中はアーティストの声を抑えて、2つ目の側面でお話したように強力な伝達を行える「アート」をプロパガンダとして政治利用する。
耽美な世界を書いた江戸川乱歩も、戦時中は当時の国家を賛美するような小説を書かされ、後々とても悔やんでいた。

だがその中でも、華々しい力強い「国家賛美」のような印象でありながら、実は国家批判の曲なのではないかと近年研究されているクラシック作曲科・ショスタコーヴィチがいる。
キリスト教政治で「同性愛は火あぶり」の時代に男性の肉体美を描いた画家・カラヴァッジョ。
女性は応募資格のないコンクールに男性の名前で応募して見事に賞を受賞した女性アーティストもいる(確か、受賞後に女性だと知られると賞が取り消しになった)。
他にも細かく分けられるが、少なくともこの3つの面が分かると「アート」をちゃんと見ることができる。
LGBTq+とアートの関係

アートには政治が深く関わっていると上に書いた。
アーティスト自身がその社会に生きているからだ。
良い政治が行われても、悪い政治が横行しても、アーティストの考えに影響して作品に表出される。
LGBTq+と政治の関わりを見てみると、古代ではほとんどどの国でも「同性愛」というのは見られた。
特に成人男性と少年の間の同性愛は公認されているところが多い。日本でも江戸時代までは「若衆」と「念者」というカップルが見られる。
キリスト教の世界観が確立されると「ソドムの罪」「ソドミー法」と言って、同性愛が禁止された。
この考えは現代のLGBTq+に対する世間の目に影響してしまっている。
20世紀になり、それまでの19世紀に起こった女性の人権運動の下地もあって、LGBTq+の人権運動も起こるようになる。
これが大まかなLGBTq+の世界史の流れになる。
アートもまたこの流れに従って、「LGBTq+の隠れ蓑」の時代から「LGBTq+の表明」に変化する。
LGBTq+の隠れ蓑時代

アーティストがLGBTq+である場合、LGBTq+がテーマのアートが生まれる場合がある。
キリスト教ではソドミー法から「同性愛」が禁止され、LGBTq+は「同性愛」の罪によって異端審問が行われた後に火あぶりの刑になるのだった。
ところでLGBTq+は恋愛対象(性的指向)のアイデンティティの話の他に、性自認(心の性別)のアイデンティティの話でもある。
「LGBTq+」という言葉が生まれる前は、一様に「同性愛」と称されたことも重要だ。
また、現在でもそうだが、「自由な発想」とのたまうアート界もまたヘテロのシスジェンダー男性優位の世界だ。これも大きく影響する。

ソドミー法が強い中世ヨーロッパではカラヴァッジョが宗教画に男性の肉体美を持ち込んでいる。
また聖セバスティアヌスの宗教画は、誰が作者でも色男の半裸体が描かれる。
お祈りの気持ちが強くなる範囲での「美しさ」表現であれば、「これは宗教画だから」という隠れ蓑があったのだった。
音楽の世界ではどうかといえば、例えばチャイコフスキーには同性の思い人がいて、その人のために作曲したというように「エピソードとして」忍ばれるものが多い。
また、音名が「A、B、C、D、E、F、G、H(クラシックにはH音がある)」とアルファベットでも表記されることから、音の組み合わせで誰かの名前を曲に忍ばせる作曲家もいる。
隠れ蓑にする場合は、直接表現の少ない絵画や音楽に表すのが多い印象だ。
LGBTq+と表明時代

表明には3種類あって、恋愛などの個人的なものと、人権を訴えるなどの政治的なもの、神話や文学、歴史の元ネタのある二次創作とがある。
「こういう人は美しい」「こんな恋人がいる」は隠れ蓑時代にもあるのだが、表明時代と違うのは「宗教画だから」「歴史画だから」という言い訳がないことだ。
「アート」は直接的だとじっくり見てもらえない。
「愛を表現しました」と言って、ただハートを描いただけだと「はぁそうですか」という反応になる。
同じ愛の表現でも、マリア様の絵だとキリスト教の話と重ねて「慈悲深い…」と考えられるし、抽象画だと「この淡い色合いは太陽の光っぽい。確かに太陽の光は暖かくて愛っぽい」と考えられる。
つまり、アートにはテーマを想起させるフックが必要なのだ。

表明時代はそのフックがより自由になる。
江戸川乱歩には「探偵小説」「耽美」「ミステリー」というフックがある。
フランシス・ベーコンは「多角的」「抽象的具象画」「溶ける色」などのフックがある。
「これは宗教画だから」「これは歴史画だから「だから同性愛とは関係ありません!」というのが隠れ蓑時代なら
「こんな表現もできる」「こういう見方ってあるでしょう?」「LGBTq+は普通に存在して生きているのです」とするのが表明時代だ。
面白いのは、神話や文学、歴史の二次創作であれば、時代は隠れ蓑でも「表明」することができたことだ。

キリスト教の前の宗教の神話・ギリシャ神話が元ネタであれば、同性愛絵画は描かれている。
自身が同性愛の罪で投獄される時代でありつつも、オスカー・ワイルドは「耽美主義」として美しい男性について書いて発表している。
政治的な表明については、LGBTq+と同時に「女性差別」や黒人やアジア人などの「人種差別」も20世紀あたりからアートで表明されている。
「普通の人間」として同等の人権が欲しい、「無いもの」として片づけないでほしい、といった内容になる。
この種類のアートは、「人間」として表現されるものが多い。
伝統的な女性ヌードをトレースした男性ヌードだったり、白人と黒人が同じポーズで2枚連作で描かれたり、「人権をください!」とだけ言うと「友情は大事」と2,3時間説教するのと同じになるので、鑑賞者に「これは…」と気づくことを促すつくりの作品となっている。
また、表明は何も現代だけのものではない。
古代ギリシャ・ローマ時代には「美しい」となればLGBTq+もアートになるし、日本でも江戸時代までは「男色もの」は1ジャンルとして確立していた。
歴史を知ると未来を見れる

アートはその時代をうつす鏡だ。
これは鑑賞側も作り手も感じることができる。
よく「日本にLGBTq+はいなかったのに」という意見を聞く。
たしかに昔の日本はお家制度で男女の結婚をして子どもを産んで跡継ぎを育てるまでが1セットであり、同性の結婚やトランスジェンダーとして生きることはなかった。
だがそれは長男や引き取り手のあった女性の話であり、「若衆」と「念者」のような関係は恋人としてはあったし、記録に残らない性のアイデンティティを貫いた人もいるのだ。
さらに女性の話となると記録に残りづらい。
歴史を知ると確かにLGBTq+は昔からいることが分かるし、史料と史実の関係を知るともっと細かいことが分かる。

もしこのような歴史を知らなければ「昔は~」という意見を聞いて「自分は変なんだ…」と1人で抱え込んでしまい、自分らしく生きれないかもしれない。
だが歴史を知っていれば「いや、こんな例もあるしこんな例もある。あなたのLGBTq+嫌悪の価値観は明治時代に西洋から入って来たソドミー法によるもので、現在ではソドミー法が人権侵害だということは国際的に常識になっているけど、どうですか?」と自分や誰かを守ることができる。
そして未来はあなたが作ることも考えれば、歴史を知れば未来を創れるということにもなる。
アートの役割

アートは直接的ではないことも表現できる。
なので虐げられている人に光を当てる役割も、隠れ蓑・表明問わずあるのだ。
LGBTq+に関しても上で述べた通り、たくさんの作品がある。
つまり、アートにはあなたの味方になるものをたくさん発見することができるのだ。
そしてアートの側面として、興味のないことに興味を持たせる力があること、鑑賞者に気づきを促すことから、当事者ではない理解者を増やすことも可能だ。

人権がないことが当たり前だった庶民に「自由」を教えたオッペケペー節のような役割が、アートにはあるのだ。
アートを知ることで「自分1人だけなんだ…」「理解してくれる人なんていないんだ」というLGBTq+の人たちを救うことができるかもしれない。
現代ではアートは絵画や彫刻、音楽、舞台、文学の他にも、映画、漫画、ゲーム、映像、広告、ファッションなどなど色んな所で観ることができる。
色んな所に「自分の理解者」を発見できる可能性がある。

かつて字の読めない庶民にキリスト教の教えを伝えるために宗教画が教会に描かれたように、作品1つで理解者がいなくて悩んでいる人を救えるかもしれない。
僕は「LGBTq+」という言葉を知らなくて「自分の感覚を誰も分かってくれない」と悩んでいた子ども時代に、レオナルド・ダ・ヴィンチやカラヴァッジョの美少年画に出会った。
原宿系ファッションが「性別なんて関係ない、自分は自分」というスタイルを教えてくれた。
アートはLGBTq+の子ども~大人を救えるものなのだ。
まとめ

今回はLGBTq+とアートの関係についてお話してきた。
LGBTq+といえば虹色の旗を思い出す。
虹色の旗は「性のアイデンティティはたくさんある」という表現としてできたという経緯はとても納得がいく。
だが「LGBTq+アート」と言って、同性カップルの人物画の後ろに虹色の旗を描いただけの絵を見ると「誰も共感できないだろうな…」「さすがに虹色の旗を使い古している」と最近感じてしまう。
なので「虹色の旗ではない」LGBTq+のアートについて紹介したかったのだ。

LGBTq+当事者には子どももたくさんいる。
だがLGBTq+を当たり前のものとして教育されないので、LGBTq+という言葉を知らず、あるいは知ってもマイナスの意味として使われていたりして悩んでしまう子も多い。
そこであえて「LGBTq+」と言わずに、キャラクターが「同性パートナーがいる」と当たり前に言ったり、美しい作品になっていたりするアートは心の支えになるだろう。
このブログではLGBTq+の情報の一環として、画家である僕がLGBTq+や美少年を描いたアートも紹介している。