
こんにちは、Miyabiだ。
前回の記事で「性別はいらない」と書いた。これは「そこに男女の差はいるのか?」「男女以外の性別を見ないようにしていないか?」といったことから「それを語るのに性別は関係ないはず」の意味で言ったものだ。
世界の人間を男女の2つに分けて考えることを、性別二元制という。
性別二元制は男女の二元論から性別を語るのだが、そもそもこれは悪なのだろうか?
LGBTq+のT、トランスジェンダーであり、男性化の治療をしている僕が今までに感じたことも含めて考えていこうと思う。
目次
性別二元制
二元論とは

二元論とは、A・Bの2つだけでその物が構成されていると考えるやり方だ。
善と悪、精神と物体、陰と陽、そして男と女というような感じだ。
人間は「この意見に賛成ですか、反対ですか?」「この夢を実現させるために努力するべきか、才能がないと諦めるべきか」というように、物事を2択で考えがちだ。
「賛成でも反対でもない。証拠や資料を全部見せられていないし、その意見の良いところと悪いところを整理して、賛成でも反対でもない「第三の意見」ができる可能性もある」
「完全な実現はできなくても、こういう形でも自分の夢は実現可能ではないか?」
と、本来は3択、4択と選択肢は多岐にわたるはずなのだ。
だが2択で済ませてしまおうとする傾向が、どうしても人間にはある。
これが二元論で語ると陥る罠である。
二元論の便利さ

何故、他の選択肢や可能性を見ずに2択にしてしまうのだろう?
それは情報処理を一番簡単にでき、かつ「どちらなのかをしっかり考えた」という実績もできるおいしい方法だからだ。
ホラーパニック映画で、主人公の周りにいる人が「真面目なメガネ」「可愛くてセクシーなマドンナ」「お調子者」「寡黙だが人情に熱い力持ち」のように単純化されていることが多い。モブのキャラクターでは父親・母親と小さな子どもが悲劇に合うといった場面もよく見るだろう。
これは人間ドラマをできる限り短い尺で伝え、本命であるホラー表現に観客を集中させるドラマの技法だ。
「見た目=キャラクターの性格」とテンプレート化をすることで、「メガネキャラが真面目な口調でしゃべった。がり勉か」「可愛いセクシー、主人公は絶対この子が好き」のように、登場しただけで誰なのかを分からせる効果がある。

これは清潔感のある見た目落ち着いたスーツを着ていれば、誰でも「信用できる人」になることができるテクニックと同じだ。
僕らは見た目という情報から、「信頼できるかどうか」「真面目かどうか」「好きか嫌いか」と瞬時に判断する。ここで導き出した答えが「第一印象」となる。
そして「答えを導き出した」ことに満足して、僕らは思考を停止できてしまうのだ。
このことから、二元論は「印象を操作するとき」に非常に使える便利な手段なのだ。
印象を操作というと詐欺師的な感じがするが、僕らも日常でよく使っている。
就活では着る服や髪形を男性か女性かの2択で選ぶし、オシャレな人のファッションをマネすればオシャレな人認定を周りがしてくれる。
僕も「男性はメイクをしない」「男性は髪が短い」「男性はズボンをはく」といったテンプレートを借りて、「自分は男性です」と周りに示している。
トランスジェンダーが周りに認めてもらうには、自分の自認する性別のテンプレートのかっこうをするのが一番の近道になる。
「メイクがしたい…」これは女性?

先ほどホラーパニック映画の登場人物を例に出した。「メガネの真面目」「可愛いセクシーな思い人」が登場するやつだ。
では、あなたがこの映画を観ていたとして、はたして登場人物1人1人を人間として理解できただろうか?
ホラーパニック映画の上手いところは、ホラーパニックの演出でもってキャラクターと観客を共感させられるから、映画を観続けられてしまう点だ。
だが「このキャラクターが好きで好きでたまらない!推し!」という感覚には何故かならない人も多いのではないだろうか?
それどころか、「怪物とかお化けの怖さが凄かったけど、登場人物ってどんなやつがいたっけ?」と記憶に全く残らない場合もある。
これが二元論の罠だ。
「メガネだから真面目か真面目でないなら真面目なはず」「セクシーな女子だから好きか嫌いかなら好きなはず」と、テンプレートによって単純化された、解像度の低い画像では、細かい個人の違いは見えてこない。

「メガネで真面目、ひ弱ながり勉キャラか。…と思ったら怪力なの!?」というように、テンプレートを逆手にとるとキャラクター自身が印象に残りやすくなる。
また、「実は幼い頃…」と回想シーンが挟まると「そんなことがあったのか…」とキャラクターの理解が深まる。印象が変わることもある。
最近では男性でもメイクをして自分を美しく見せることが認められてきている。
メイクでいうと、僕も見た目にコンプレックスがあるから化粧をしたい気持ちが大きい。
ただ僕の場合はトランスジェンダーというそもそもの逆手をとっているので、「心は男って言ってたのに、メイクをするってことはやっぱり女じゃん!」と言われてしまう恐れがあると心配してしまう。
世間には「男はメイクをしない」「女はメイクをする」という2択がテンプレートとして存在する。
生まれた体が男性の人は「男性なのにメイクするんだ」と印象深くなる一方、トランスジェンダー男性の僕は「メイクをするってことは男性ではなく女性」と逆に認識が働く。
このように、二元論は個性をブーストさせることも、抑え殺すこともできてしまう。
僕らが自己表現するために

人が生きる意味は「自己表現」にあると思う。
これは何も「みんなアーティストになれ!」と言っているわけではない。
僕は画家だが、それは絵を描くことが一番自分を表現できると感じるからだ。大学はクラシック音楽の演奏で卒業したが、僕は周りの同期たちのようにクラシック音楽では自分を出すことができなかった。だから画家に転向した。
アーティストでなくても、例えば「営業の仕事は自分を押し殺さなきゃいけないけど、プログラミングで0と1を構築する仕事は生きていることを実感できる!」だとか、「1人だと寂しくてダメだけど、仲間といっしょに働いたら自分でいられる」ということがあると思う。
この「自分でいられる」「生きている実感がわく」というのが、自己表現しているということなのだ。

僕たちは食べて・寝て・交尾して・子孫を残して世代をまわすだけでは「死んでしまう」のだ。何故なら「思考」があるから、「生きていることを実感できる何か」がなければ「生きている価値がない」と感じてしまうからだ。
こう考えると、性別二元制で「男は~」「女は~」に振り回されている暇はない。
使っても良い、けど振り回されてはダメ

自己表現のために世間にある性別二元制の考え方を踏み台にするのは良いことだ。
印象に残りやすいし、男女の枠にはまらず自分を生きているポジティブな感じがする。
だが、性別二元制がために自己表現を犠牲にしてはいけないのだ。
メイクをすると生きていると感じるなら誰であっても美しいメイクをしていい。
「性被害者は女性が多い」から男性の被害者は泣き寝入り、では助からない。世間の「性被害者は女性が多い」という認識から、データにそもそも男性の被害者がカウントされていないことも考えられる。
トランスジェンダーは自認する性別のテンプレートをなぞらなくてはいけない、という話ではない。
Xジェンダーやインターセックス(性別の判断基準が先天的に男女のどちらかに統一されていない人)は男女のどちらかをハッキリしろ、と強制するのもおかしい。

善か悪か、というのも二元論だ。これも白黒はっきりつくことではないことはお分かりだろう。
性別二元制が世間の根底にあるのならば、それを使って自己表現するのは良い。だがそれに自分が飲み込まれてしまうのは危険だ。
「酒は飲んでも飲まれるな」という言葉があるが、性別二元制も「飲んでも飲まれるな」と考えるともっと生きやすくなるだろう。
まとめ

僕は基本的には性別二元制では考えたくない人だ。
「男は~、女は~。データもあります」というのは世間やメディアなどが性別二元制がベースにあってのデータなので、結果が実際と偏っている場合がある。
LGBTq+のデータも「当事者だが、本人がLGBTq+という言葉を知らない」「差別が怖いからカミングアウトできない」人のデータを含められていないのが現状だが、それと同じだ。
音楽を辞めようと思ったとき「趣味とか一切やめて、生活できるだけのお金が入るアルバイトだけをして、家はできるだけ狭いところで、食べて寝ることができれば最安値で生きていける」と考えた。
だが実行はできなかった。
「生存」はしていても「生ける屍」だと絶望したからだ。
絵で描きたいことがある、映画や本が好き、トランスジェンダーで男性に見た目と戸籍を変えるための治療をしたい。
この「生きる意味」を手放しては、死んでしまう。
そして生きる意味こそ、人間の自己表現だと感じた。
あなたの自己表現は何だろう?