
僕はMiyabi Starrという名で絵を描いている。
現在は油絵を中心に少年画を精力的に制作しつつ、美少年・LGBTq+の歴史や登場する作品を研究している。画家活動で個展を経験したり、グループ展に参加させていただいたりもした。
僕が今のような活動を始めるまで色々なことがあった。正直、挫折が多い。
今回は僕がこれまでどのように生きてきたかを紹介しようと思う。
出身は音大

僕は絵描きだが、出身は東京藝術大学の音楽学部だ。もともとここでクラシック音楽の演奏をしてきた。
小さい頃から絵を描くことが大好きではあったが、専門的に勉強をしてのは音楽の方だった。絶対音感があるのが密かな特技だったりする。半ば義務のように楽器を練習してきた。
一方で同じ大学に通う天才の友だちは、クラシック音楽が大好きでたまらなくて血のにじむような努力も苦にならない、むしろ楽しんでいるような人たちばかり。また、もう1つの学部・美術学部の人たちは僕の好きな絵を描く教育を小さい頃から受けていて、大学で好きなだけ作品制作をしたり、活動の基盤を在学中から確立している人もいた。僕は正直焦った。コンプレックスも膨れ上がった。
僕も大好きなことを努力しまくって、自分の能力をつぎ込んで自己表現をしたい…!
この思いに突き動かされ、じょじょに絵描きにシフトチェンジしたのだった。
藝大卒が全員が全員アートで大活躍はしていない、卒業生の半分が行方不明(僕か?
)と藝大を特集する本で語られたりしている。だが、同期に天才がうじゃうじゃいるのもまた事実なのだ。音楽や美術のジャンルを超えて「天才の練習のときのモノの考え方」「作品の捉え方」「表現とは?」などなど、同期の天才たちのアートへの向き合い方はとても刺激だったし勉強になった。
独学で画家に転向した現在、僕は自分の絵に向き合えているか、しっかり頭を使って自分のできる精一杯を発揮できているかを判断する指針となっている。
音楽学部でもまれた生活は、画家としては遠回りだったけど無駄ではなかったと今では感じている。
大学在学中、漫画家を目指す
「絵を描いて自己表現したい」と大学在学中に思った僕は、青年誌の新人賞に漫画を投稿するようになった。
運良く投稿3作目で入選し、担当がついた。「これで認められれば、絵で生活ができる!」僕はせっかくついた担当に見放されたくなくて、ネームを描きまくった。
ネームとはストーリーの筋書きが決定したあとに行う、実際にコマ割りをして編集者に漫画として見せるための鉛筆書きの設計図だ。下の画像のように描いて、原稿に入る前に演出や全体の流れを練る作業をする。

「デビュー前の新人は32ページ分のネームを10日に1本提出すると、担当に覚えてもらえる」と聞いた僕は、32ページ分を5日に1本のペースでネームを担当に提出をした。
1日の作業量は10時間を超えたし、勢い徹夜もした。
結果、半年ほどで腱鞘炎と腰痛になり、漫画を描けなくなってしまった。
腰痛は5ヶ月で椅子に座れるくらいになったが、腱鞘炎は4年経った今でも治らない。
「それでも絵を描きたい…」と諦めの悪さを発揮して色んな画材を試し、筆を握らずに描けて、乾きが遅いことから1日の作業量が限られる特性のある油絵にたどり着いたのだ。
絵を描くには健康でいることが大事、そう身にしみた経験だ。
トランス男性という性別

僕は男性だが、生まれた体は女性だった。
LGBTq+のT、トランスジェンダーである。生まれた体の性別と自認する性別が違う人のことをいう。
「何がキッカケで男になりたくなったの?」とたまに質問される。
ただ僕は物心ついた頃から「自分は男の子だ!」「でも友だちも大人も僕のこと女の子だと思ってる」と感じていたのだ。だが、幼稚園児くらいの子どもにとって大人は間違えをしないはずの存在だから「男の子だよ!」と主張はできなかった。
トランスジェンダーには色んな人がいる。僕の場合、怪獣のおもちゃもミニカーもおジャ魔女どれみのおもちゃも好きだったし、着る服も見た目が良ければ何でも着た。自分でモノを選択する分には男物・女物という意識はなかったのだ。
だが「女の子だからピンクね」「女の子だからスカートはいてね」と、他人から性別を断定された上で指示されると「男なんだけどなぁ(ピンクもスカートも好きだけども)」と感じるのだ。また第二次性徴での体の変化に対しても違和感がものすごかった。
なので「男になりたくなった」というよりかは、大人になってLGBTq+の正しい情報が手に入るようになって「自分の性別の自認の仕方がトランスジェンダーというものだ」と知って初めて「自分は男性だ」と堂々と言えるようになった、といったほうが正しい。
「正しい情報を得る」というのが大事で、LGBTq+を知らなかった僕は「自分って何なんだろう?」と幼稚園から大学まで1人で抱え込み、周りには自分を偽ることで鬱病にもなっていた。
だが、正しい情報を知ってからは職業、人種の多様さと同じようにLGBTq+も少なくない割合あって、自分らしく生きることの大切さを知った。
この経験から僕の絵のテーマが生まれ、このブログが生まれた。僕が持っている情報は「自分とは?」と悩んでいる人たちに伝えたい。
外国人として見た世界

僕は生まれて間もなく、中国に引っ越した。小学生になって帰国するまでの間、外国人たちが通う幼稚園、インターナショナルスクールに通ったのだ。
当然だが、他の国に行けば日本人も外国人だ。
僕の通った幼稚園やインターナショナルスクールには地球1周したように本当にさまざまな国籍の子どもがいて、先生も中国人、オーストラリア人、シンガポール人と中国語圏・英語圏から来ている人たちだった。
旧正月やクリスマスなどの中国やキリスト教のイベントはもちろん、そこでは自分の国や地域の文化について発表するイベントもあった。
当時の僕はほとんど日本で暮らしたことがなかったので、浴衣を着て日本について発表しつつも「日本という外国」を学んだ。当時は日本も他の国もフラットに見ていたのだ。
世界には色んな文化があると幼児期に知ったことは大きく、「当たり前と思っていることは、別の人たちからすると当たり前じゃないかもしれない」「「当たり前」は幻想だ」という認識から、日本に帰国してからも何かあれば資料にあたったり、データを集めたりするクセがついた。
美少年という理想像

小学校高学年から、僕はある夢を持っている。
美少年になりたい。
これだ。これによって理想と現実のギャップに悲しいことに長いこと苦しめられ、画家に転向して少し経ってから僕は1つの解決策を編み出した。
自分の理想像を絵のテーマにする。美少年を僕の作品のモチーフにするのである。
画家になったばかりの頃、現実を受け入れられずひたすら「美少年になりたい…」ともがいていた時期は「美しい人を描く」ことすら壁を感じていた。
だが「今の自分の感情を受け入れる」練習をした結果、「自分自身」と「理想像である美少年」を切り離して考えることができたのだ。
そこから「美少年とは?」「美醜とは?」と冷静に深く思考し、そこで出た回答と自分の理想像である美少年とを組み合わせて作品として描くようになった。

今ではこの理想像をモチーフにしつつ、
「今世界で起こっていること・LGBTq+や人種などのマイノリティをめぐること」などを、自分がどう解釈するか、他にどういう見方が存在するかについて表現しようと制作するようになったのだ。
この制作の仕方から、最近では「画家」というよりも「アーティスト」を名乗ることにしている(似て異なる職業だからだ)。
これらの挫折や模索、発見を通して、
- 正しい情報・色んな視点の情報を得る
- 自分を押し殺すのではなく、自己表現をして物事を解決する
この2点が自分を大事に生きる上で重要なことなのだと痛感した。
挫折はツラいけれど、今振り返ると全部が僕の創作活動の原動力として吸収されている。