僕はMiyabi Starr という名で画家をしている。作品に取り掛かるときは、描きたいテーマに合わせて歴史、神話、文学、生物などの「根拠」を事前に調べている。

「根拠」があると、自分の描きたい絵のテーマに奥行きを付けることができ、さらに自分の創作そのもののテーマを色んな角度から色んな人の意見・話で見ることができる。お客様に一貫した世界観で色んな種類の作品を楽しんでいただけるし、描き手の僕もネタ切れを一切起こさず次の作品を描くことができる

何より、この「調べる」工程が絵を描くことの楽しみの1つである。

僕は小学生の頃から本を読むのが好きだった。小説や図鑑、資料集なんかが新しい発見が多くてよく読んだ。

小学生の生きる狭い現実世界だけではもの足りなかったのだ。学校の先生が教室で「皆さんが静かになるまで5分もかかった」と1時間も説教している間、僕は俯いているフリをしながら机の下で本を読んでいた。本の世界の方が説教よりも何百倍も楽しいからだ。

人生を変えた漫画

小学6年のとき、僕はある漫画に出会った。

惣領冬美先生の「チェーザレ 破壊の創造者」だ。

今でも青年誌モーニングで不定期連載されている、イタリア・ルネサンス期の政治家の物語なのだが、これは他の歴史漫画と一味も二味も違う

イタリア・ルネサンス風を意識した絵柄や、当時の街並みや人物を撮影してきたかのような美麗な作画。極度の勧善懲悪や敵味方の構図のようなドラマチックな盛りは使わず、非常に冷静に史実を紐解いていくストーリー。

細やかな作画も、ドラマチックに頼らない冷静なストーリーも、漫画家が歴史の専門家のような見方をできなければ描くことができない。そしてその証拠に、チェーザレの巻末には毎回、参考文献が表記されているのだ。これは漫画ではなく、論文のやり方だ。

第1巻の巻末に収録された参考文献欄。

論文は必ず参考文献をつけるのだが、それは「これは自分の妄想ではなく、このような先行研究や証拠があっての主張です」と論文がちゃんと真実を追求することを目的としていることを示すためのものだ。これがこの漫画にはついている。そして、歴史の専門家もこの「チェーザレ」は安心して読めるものだという。

そして、一般読者である僕もこの漫画を読むと「人類の歴史の一端を伝える」という作者の気迫を感じる。

僕はこの美しい世界観から「専門家並みに研究ができれば、絵はここまで説得力を持つことができるのか…!」と小6で圧倒された。

これが僕が本気で絵を描くこと、歴史研究をすることの大きなキッカケになる。

調べることを覚え、世の中が楽しくなる

中学に入ってから僕の興味は幕末長州に移った。この熱中は大学卒業するあたりまで続き、どれくらい熱中したかというと、東京から日帰りで山口(旧・長州)まで飛んで、活字化も展示もされていない、筆で書かれたままの手紙を倉庫から出してもらうくらいだ。

惣領先生の「チェーザレ」が日本語だけでなく、英語・イタリア語の資料からできていることが参考文献から分かっていた。幕末長州に置き換えると、現代語で書かれた資料だけでなく、「~候」で書かれた昔の史料に当たるということだ。

オタク気質で調べるの大好きな僕にピッタリだった。昔の手紙や日記などを読み漁った。

そして「調べ方」を一度覚えると、「宇宙ってどうなっているんだ?」「数学好きな人が「数式が美しい」ってよく言うけど、それってどういうことだ?」と、他のジャンルでも納得がいくまで、楽しく感じるまで調査することができる。この世の中がとても楽しいことで溢れているのが分かってしまうのだ。

それは本当に真実か?

山口県・吉田にある東行庵の山縣狂介(有朋)像

歴史の昔の手紙や日記というと

「歴史の新事実がごろごろあるのだろうな」

と思われがちだ。

だが実際は、Aに関する事実を確認するには、同じ頃に書かれたBさん、Cさん、Zさんの手紙や日記をも調べなければ分からない。何故なら、昔の手紙や日記を書いたのは人間だからだ。

今の交友関係でも「考え事しながら歩いていたら、友人の挨拶に気づかず無視してしまった」みたいなことから、すれ違いやケンカ、思い違いが生まれてしまう。無視された友人はあなたのことを「無視するひどい人」と怒ったかもしれないが、あなたからしたら「考え事をしていて、友人のことは好きだし気づいていたら絶対挨拶を返してた」と思うだろう。

こういうすれ違いや思い違いは、プライベートのレベルでも政治的なレベルでも、今も昔も起こっている。

だから色んな角度から見て、真実を追求するのだ。真実が分からないから多角的に見ようと努力をするのだ。

学者はこれを論文で発表するし、弁護士は裁判で発表する。

僕はアーティストなので、作品で発表する。