黒ウインドブレーカーにジーパンだった小学生時代

僕は油絵をよく描くので絵の具がはねてもいいようにアトリエではツナギやボロを着ているが、実はファッションが大好きだ。
とはいってもこれは高校くらいからで、それまではほとんど黒のウインドブレーカーにジーパンの組み合わせだった。
これには理由があった。何故なら小学校時代のクラスの男子の大半は黒のウインドブレーカーにジーパンだったからだ。(その他の男子は冬場でも半そで半ズボン組で参考にならなかった)
今でこそトランスジェンダー(生まれた体と違う性別を自認している人)だと分かっているし、周りにもカミングアウトしている。
だが小学生当時はLGBTq+の言葉も知らず、周りからの女の子認識をどう変えようかと考えあぐねた結果、ワンピースやスカートを買おうとする親に「黒ウインドブレーカーとジーパン!」とねだる事しか思いつかなかった。
だが、高校時代、この考え方が大きく変わった。
着たい服を着て、何が悪い。原宿系ファッションとの出会い

高校は電車通学で、下校時はほぼ毎日本屋さんに寄っていた。
あるとき、普段立ち入らない女性ファッション誌コーナーになんとなしに入ってみたのだ。「異性にモテる!」「シンプルだけど可愛い!色っぽい!」と雑誌が並んでいる中
「自分の着たい服を着て、何が悪い」
ケンカ腰の売り文句が目に飛び込んできた。
思わず立ち止まって手に取った雑誌は、原宿系ファッション専門誌・KERA!。(今は電子雑誌に移行したのかな?)原宿系ファッションとは、ロリィタファッション、ロック・パンクファッション、デコラティブファッション、などなど、アニメから抜け出してきたようなとにかくパンチと主張の強いファッションのことである。最初はその他には見ないパンチの強さに目が惹かれた。だが次の瞬間、僕は大発見をしたのだ。
「服装に、性別が関係ない!?」
今まで僕の周りにあったファッションは、女の子はワンピース、スカート、オシャレな女の子用ズボン、男の子は言わずもがな黒ウインドブレーカーにジーパン。制服。スーツ。パンプス。「男」「女」と着るべきものがパッキリ分かれていた。
だがこの原宿系ファッション、例えばロリィタ服をまとう可愛い化粧をしたモデルさん。超絶美少女のモデルさんの性別は女性も男性もいた。またロック・パンク服をまとうとてつもないイケメンも男女両方いた。そして雑誌に載っているカットは全てが美しかった。
彼ら・彼女らは「自分の着たい服、やりたいファッション、自分の理想像を目指している。自分が女とか男とか年齢とか周りの目を気にしていたら自分を表現できない!」と口をそろえて言っている。
僕の中に電撃が走った。服とは、自己表現ツールだったのだ。周りのために裸さえ隠したら、後は「男なのに」「女なのに」「年齢とあわない」「他の人と違うファッションだ」という声は気にしなくて良かったのだ。この雑誌のモデルさんたちみたいに、自分なりの自分の価値観に合った「美しい」を目指して磨けば良いのだ。
LGBTq+であっても、そうでなくても、どのファッションも極められる。これはとても勇気になった。
自分の着たい服を着ることの精神的効果

これに気づいて以降、僕は黒ウインドブレーカーとジーパン以外にも目を向けた。とはいえ、相変わらず黒は好きでロック・パンクなブリティッシュな服を着たりしている。
だがこの違いは大きい。
「男に見られるために、女の子でもギリギリボーイッシュで許される服」という、周りを気にしまくっていたのが、「自分はこの服が好きなんだ!見て見て!」「初めて行く所だし「こんにちは」って書いてある靴はいてこう!」と自分の表現のために服を着ている。
そして雑誌の男性モデルさんの「俺のロリィタのかっこう、超可愛くね?」精神もちょっぴりあって、ロリィタ服も何着かクローゼットの中にある。今の自分と全く違う自分に変身したくなったら着れるようにするためだ。
そうしていたら「自分を出す」ことに慣れていき、僕の最大の隠し事で人に言えなかったLGBTq+であることのカミングアウトもできてしまっていたのだ。とはいえ、自分の好きな服を着だしてからカミングアウトまで5年ほどかかったから、これまでどれだけ自分を押し殺していたのだろうとゾッとしたくらいだ。
僕は自分を否定する目から解放されたのだ。
「たかが服、着れたらいい」と言う人もいる。
だが、パジャマを着るとスイッチがオフになった気分になったり、スーツを着るとパリッとしてちゃんとした大人をしなくてはいけない気分になったりするように、着る服はあなたの精神に影響を及ぼす。
アップルのジョブズみたいに同じような服を毎日着るにしても、一番自分を体現している服・組み合わせにして初めて最高のパフォーマンスができる。ジョブズが毎日パジャマでもなく、毎日スーツでもなくカットソーだったのは、あのかっこうこそ彼の自分像だったからだといえる。
もし今、外に着て行って人に会っている服が外面のためだけで自分の趣味が1つも入っていないという場合は気をつけてほしい。自分を否定していることになってしまっている。あなたの理想の自分はどんな服を着ているだろうか?
服とは、アイデンティティだった

ファッションの歴史を調べてみると
- 時代が変化し一家に必ずいた家政婦がいなくなり、家政婦がいないと着れないボタン・紐だらけの服が廃れ、代わりにジッパーが発明される
- 戦争で布地を大量に使えなくなり、それでもオシャレを目指したデザイナーが丈の短いファッションを流行させる
- ジェンダー意識の変化から女性用スーツや、中性的なグラムファッションが登場
など、たとえ世の中や身の回りが窮屈でも、人の意識や理想で新しいファッションが生まれてきたのだ。あのロックでさえ「商業的になりすぎ」と否定されて、そこからパンクが生まれている。服装は言葉の代わりになるのだ。
また、日本人が着物を着たり、学校や職場の制服を着たり、服は所属をも意味できる。上に載せた写真も、誰かは分からなくても「昔の日本人だ」と分かるだろう。
これらから僕は「服=アイデンティティ」と考えて、画家として布や身に着けるものを自分の作品の中にもよく登場させている。
高校時代に原宿系ファッションの精神に出会って、服を着ることの精神的な効果を目の当たりにした。これが画家として、Miyabiとしてのターニングポイントだった。
そして、この自己表現の効果を伝えたい所存だ。